固有性の棄却

少し遅くなってしまいましたが、「個人に依拠する」ということ - モジモジ君のブログ。みたいな。への応答を書いていきたいと思います。

mojimojiさんの書かれた応答を読んだ感想を正直に書けば、僕の伝えたかったことがうまく伝わっていないな、という印象を持っています。mojimojiさんは、あくまでもご自身で定義された「民族主義」について、そしてその問題について書かれています。僕への応答もそれが前提になっています。でも僕は、その「民族主義」の問題そのものではなく、「民族主義」という言葉の使われ方を問題としているのです。

もっと具体的に書きましょう。今回の話は「在日」というコミュニティを巡る議論が発端となっています。でも、「在日」というカテゴライズはアプリオリに存在するものではありません。この前提は共有できると思いますが、「在日」というカテゴライズが存在するには、彼らを取り巻く状況と、その経緯や歴史がまずなければなりません。

つまり「在日」というカテゴライズは、必ずしも彼らが主体的に選び取ったというわけではありません。僕たち「日本人」が存在することによって、僕たち「日本人」との関わりがあることによってはじめて存在するものです。彼らが自分たちの民族性に向き合うということは、その状況と向き合うということでもあるのです。

そこには関係性からなる固有の文脈が存在します。mojimojiさんは「個人に依拠する」とおっしゃいます。でも、自身の置かれている固有の文脈、固有の関係性とそこから派生する固有の責任とを抜きにして、「個人」というものは存在し得るのでしょうか。それらを抜きにして存在する「個人」とは、いったいいかなるものなのでしょうか。僕は、そんなものは存在しやしないと思います。

そして先のエントリ*1で書いたように、彼らにだけ「民族アイデンティティ」が見出され、「日本人」の同様の営みは普遍的なものとして扱われる、という状況があります。それは、固有の関係性から派生する固有の責任というものを、僕たちが引き受けていないということを意味しています。

彼らが、その取り巻く状況によって「在日」となったように、僕たちは逆に彼らから問われることによって「日本人」という存在になるのです。その固有性を棄却して、一足飛びに普遍性に身を置くことなどできはしない。

そしてその責任を引き受けない「日本人」が「民族主義は余分」と言う。僕が「在日」の人であれば、「お前たちにそんなことは言われたくない」「お前たちにそれを言う資格はない」と返すでしょう。

mojimojiさんはそのような批判は成り立たないとおっしゃるかもしれません。しかし僕は、このような反応は全く正当なものだと思います。

そしてこのような非対称な文脈の中で「民族主義」という言葉が使われた場合、どのように作用するのか、どのようなパフォーマティブな作用が働くのかは先のエントリで書いた通りです。

そしてもう一つの論点ついても、もう一度、別の視点から述べてみたいと思います。mojimojiさんは民族主義を次のように規定しています。

自らのアイデンティティの基盤として文化や言葉や歴史に依拠することそれ自体ではなく、ある文化や言葉や歴史に依拠することを「そうあるべきこと」として提示しようとする発想


でも、何かに依拠し「そうであるべきこと」として提示することは、何も「民族主義」に限った話ではありません。それは全てのイズムに言えることです。それが抑圧的に作用し得るか否かということも、全てのイズムに言えることなのです。

そしてこれはどのイズムにも言えることですが、同じカテゴリにカテゴライズできるイズムであったとしても、その依って立つところ、その可能性、その発展は多様なのです。

エドワード・サイードがイクバール・アフマドについて語った一文に、次のような一節があります。

(イクバール・アフマドは)アラブ人たちに、アラブ主義は、狭小な民族主義であるどころか、ナショナリズムの歴史からみてもきわめてユニークなものであって、それは境界を越えたものとみずからを結びつけようとしてきたのだと説いた。アラブ主義は、言葉と感情のみによって結びつけられた普遍的な共同体を想像する一歩手前のところまできている、と。その感ずるところと、その言語と、その文化においてアラブ人である者は誰でもアラブ人である。そのためユダヤ人でもアラブ人になれる。キリスト教徒でもアラブ人である。イスラム教徒もアラブ人。クルド族もアラブ人。みずからをこのように幅広く規定した民族運動を、わたしは寡聞にして聞かない。*2


帝国との対決―イクバール・アフマド発言集 (Homo commercans), P57


さて、このような捉え方の前では「アラブ人はこうあるべき」という言葉と、「人間はこうあるべき」という言葉の境界は極めて曖昧です。この「アラブ人」という概念が示しているように、全ての思想は固有の関係性の中から産まれてきます。そしてその固有の関係性の中から、その固有性の中から、普遍的な概念が産まれてくるのです。それが人の生命というものです。そうであるとき、「○○主義は余分」なんていう乱暴な言い方は可能でしょうか。僕は、できないと思います。

全ての批判は原則として個別具体に対しておこなわれるべきです。乱暴な前提によってなされるべきではないのです。自身の観念が内省もなく普遍的であると考えるのは危険です。僕はもっと、人の思惟の持つ自由さを、多様性を信頼したい。そして偏狭な前提からその可能性を棄却するようなことは、とても悲しいことだと思っています。

*1:http://d.hatena.ne.jp/t_kei/20090402/1238674472

*2:()の中は引用者による補足