地下猫さんとの議論について

ここしばらく忙しさにかまけてまとまった文章を書いていなかったのだけど、横着してはてブだけで済まそうとしたのは良くなかった。


山下俊一教授のインタビューをめぐるid:tikani_nemuru_Mとid:t_keiのやりとり


今もまとまった文章を書いている余裕はあまりないのだけれど、この件で僕が言いたかったことを少しは要約しておいた方がいいだろう。


まず、この件での id:tikani_nemuru_Mさん(以下、地下猫さん)の論旨を僕の理解でまとめるなら以下のようになる。

  1. 移住はハイリスク。(彼の過去のエントリでは「低線量被曝に比べてリスクが『ケタ違いに高い』」とも)
  2. 山下俊一氏のインタビュー発言はまっとう。
  3. 山下氏が進めているような調査を非難するようでは、補償も困難。
  4. 事実に基づかなければ、被害は確定できない。


地下猫さんが述べているように「被害の認定は事実に基づく」、これは多くの人がそのように思っているのかもしれない。もちろんそれはある意味そうなのだけれど、でも冷静に考えてみれば物事はそんなに簡単じゃあないということに気がつくだろう。

たとえば、科学的に確定していない事柄はどう考えるべきなのか、無いものと見なすべきなのか。また、確率的にしか捉えれない事象をどう個別の因果関係と結びつけるのか。−−過去の公害訴訟では、常にそのような「事実認定」の問題がつきまとっていた。広島長崎においても、様々な症状に長年苛まされながらそれが原爆に起因するとは認められずに苦しんできた人々が大勢いた。

女性は3歳の時に広島で被爆。物心ついた頃から体が弱く、何度も病院に運ばれた。だるさで朝起き上がれないでいると「横着病」と周囲から非難された。04年に右目が見えなくなり、「右網膜動脈閉塞(へいそく)症」と診断された。原爆症認定を申請したが、却下された。

(……)

 被爆者援護法では、病気が放射線に起因し、現在も医療を要する状態であれば原爆症と認定され、医療特別手当などが支給される。だが、病気と被爆との因果関係などで国の基準は厳しく、認定数は被爆者健康手帳所持者の1%にも満たなかった。このため、国の審査は被爆の実態を見ていないとして、03年から全国17地裁で被爆者が集団提訴、原告側勝訴が相次いでいる。


http://mainichi.jp/select/opinion/eye/news/20110803k0000m070152000c.html


公害訴訟の歴史の中では、「科学的な原因究明」といった言葉はむしろ被害者救済の妨げとなってきた側面がある。特に個別事例の科学的因果関係を証明することの困難さは常に被害者にとっての足枷となってきた。そのような状況の中で、直接的な因果関係を立証しなくとも統計学的見地から立証をおこなう疫学的アプローチは、被害者にとって大きな武器となった。

(1) イタイイタイ病訴訟
 この訴訟は、富山県神通川流域の住民が、三井金属鉱業株式会社に対して、43年3月に提起した損害賠償請求訴訟(第1次訴訟)である。
 この訴訟において主たる争点となったのは、三井金属鉱業株式会社神岡鉱業所から排出された廃水等に含まれていたカドミウムによりイタイイタイ病が発生したかどうかの因果関係の立証である。
 46年6月に行なわれた判決は、因果関係について疾病を統計学的見地から観察する疫学的立証法を導入し、その観点からの考察を中心に、臨床と病理的所見等を付加した上で、三井金属鉱業神岡鉱業所から排出される廃水等とイタイイタイ病との間に相当因果関係が存することを認定した。
 そして、大筋においてそのような説明が科学的に可能な以上、被告が主張するカドミウムの人体に対する作用を数量的な厳密さをもって確定することや経口的に摂取されたカドミウムが人間の骨中に蓄積されるものかどうかの問題はいずれもカドミウムと本病との間の因果関係の存否の判断に必要でないとされ、法律的な意味で因果関係を明らかにすることと、自然科学的な観点から病理的メカニズムを解明するために因果関係を調査研究することとの相違が明確にされた。このことは、公害裁判における原告側の因果関係の挙証責任を事実上緩和することを意味するものである。


http://www.env.go.jp/policy/hakusyo/honbun.php3?kid=148&serial=1122


だからid:T-3donさんが水俣に関して『「疫学的因果関係を行政・司法が認め」なかったんですよ。機序に拘って対応が遅れた例』と言っていることは、それ自体はまったく正しいし、異論はない*1。しかし同時に、疫学的アプローチの中でも不確定とされ、その陥穽の中で苦しんできた人々がいることも指摘しなければならない。先にあげた原爆症認定訴訟はまさにそうだった。以下に2011年7月5日に出た東京地裁による原爆症認定訴訟の判決要旨を抜粋する。

(5) 一般論として、放射性微粒子がごく微量でも細胞更には人体に相当の影響を及ぼす場合があり得ること自体はにわかに否定することができない。
 そして、DNAの損傷等による人体への傷害は、その後の体内での様々な生体反応を経て、長期間を経過して、組織的病変として発することがあるとされ、その間には、他の様々な外部的要因が人体へ作用し得るとともに、加齢といった時の変化自体による要因も作用してくると考えられる。


(6) 上記のような経過により発する放射線後障害に係る疾病は、放射線被ばくのない場合に発する疾病と比較して、非特異的なものであるとされる。
 また、放射線被ばくの態様等の差異が、直ちに結果として発する放射線後障害に係る疾病と特異的に結びつくとは認められない
 被爆者個々人については、放射線後障害に係る疾病が長期間を経過して顕在化することが多くみられるところであり、加えて、症状が非特異的なものであることから、当該症状と原爆放射線の被ばくとの関連性の存在を顕著に示唆するということができるような証拠が直ちには見当たらないとしても、それにはやむを得ないところがあるものと考えられる。


(7) 原爆放射線が人体に及ぼす影響については、これまで、主として疫学的方法により研究が継続されてきた。
 一般に、特定の事実の後に発生し当該事実との間に原因結果の関係に相当する発生の連続性ないしは規則性がみられる他の事実が複数存在する場合において、当該他の事実のうちの一つにつきその発生の客観的な頻度が小さいとの一事をもって、その事実と先行する事実との間の原因結果の関係が否定されるものではない。
 その上で、例えば、対象となる事象が様々な規模に及び複合的であることや、資料が限定されていることは、そもそも疫学調査におけるコホートの作成に当たって考慮されるべき基礎的な事情につき調査の結果の評価に当たり留意すべき要素があることを意味する。特に、ABCC及び放影研による疫学調査については、放射線による疾病の発症に係る超過リスクが現れにくいという問題点が指摘されている。


(8) 原爆放射線が人体に及ぼす影響については、徐々に解明されてきたが、急性症状の評価や残留放射線による被ばく及び内部被ばくによる影響等といった少なくない点において、専門家の見解が分かれている現状にあり、現段階においてもなお研究は継続されている。そして、将来それが更に進展して解明が進めば、従前疑問とされてきたものが裏付けられる可能性もあり、それが小さいと断ずべぎ根拠は直ちには見当たらないものと考えられる。


(9) 以上に述べたところからすると、原爆放射線が人体に及ぼす影響については、放射線の物理的な性質等に関する一般的な知見を推論に用いるに際して前提となる各般の事情に係る情報の収集や分析等に限界があるといえ、そのような中で正確さや確実さ等を考慮した条件設定の整理の作業をすること等を通じ、全体として、これを過小に評価する結果に傾きがちとなることを容易には否定することができないものと認めるのが相当である。


http://www4.ocn.ne.jp/~t-hibaku/hibakusya/110705_y.html ※ 強調部分は引用者による


ここでは原爆症認定で用いられてきた疫学的見地の妥当性が問題となっている。『対象となる事象が様々な規模に及び複合的であることや、資料が限定されていることは、そもそも疫学調査におけるコホートの作成に当たって考慮されるべき基礎的な事情につき調査の結果の評価に当たり留意すべき要素』があること、また『経過により発する放射線後障害に係る疾病は、放射線被ばくのない場合に発する疾病と比較して、非特異的なもの』であり、『当該症状と原爆放射線の被ばくとの関連性の存在を顕著に示唆するということができるような証拠が直ちには見当たらない』こと、しかし同時に『従前疑問とされてきたものが裏付けられる可能性もあり、それが小さいと断ずべぎ根拠は直ちには見当たらない』こと、さらには『原爆放射線が人体に及ぼす影響については、放射線の物理的な性質等に関する一般的な知見を推論に用いるに際して前提となる各般の事情に係る情報の収集や分析等に限界があるといえ、そのような中で正確さや確実さ等を考慮した条件設定の整理の作業をすること等を通じ、全体として、これを過小に評価する結果に傾きがちとなる』ことが指摘されている。


これは今、福島で起きつつある状況についても予感させられる指摘だと言える。低線量被曝をめぐる議論はこの判決要旨でも触れられている通り、いまだに決着がついていないとされる事柄であり、そのことが様々な混乱と不作為とを招いている。


ここで、この件の発端となった山下俊一氏の言動を見てみよう。

山下センセイは村議会議員と村職員を対象にセミナーを開き“放射能の安全性”を説いた―

 「(飯舘村で)今、20歳以上の人のガンのリスクはゼロです。この会場にいる人達がガンになった場合は、今回の原発事故に原因があるのではなく、日頃の不摂生だと思って下さい」、「妊婦は安全な所へ避難された方が精神的なケアを含めて考えると望ましいと思う。ここで頑張ろうという人がいてもそれはそれでいいと思う」

 ―山下センセイは身の毛もよだつ “放射能安全神話” を滔々と述べたのであった。

 セミナーに出席した議員の妻は「おとうちゃん、山下先生の話を聞いた時はすっかり安心して帰ってきたもんねえ」と当時を振り返る。

 村のオピニオンリーダーにあたる村議会議員や村職員が「放射能は安全」と頭に刷り込まれてしまったのである。村民への影響は少なくなかった。

 結果、多くの村民は自主的な避難もせず外出もした。線量が高かった初期の頃も積算すれば年間「100mSvを超す」地点が幾つかあるにもかかわらず、である。山下センセイは御自ら「ガンのリスクがあがるのは100mSvから」とこのセミナーで発言しており、自説と矛盾することになる。

 原発推進派の攻勢は続いた。9日後の4月10日には、御用学者の一人に目される杉浦紳之・近畿大学教授を派遣した。杉浦教授も前者と同じように「(放射能は)恐くない」と説いたのである。

 だが翌11日、飯舘村に衝撃が走る。政府が村の全域を「計画的避難地域」に指定したのである。

 つい前日まで福島県放射線リスクアドバイザーらが「安全です」と高らかに“宣言”していたのは何だったのだろうか。

 村の男性(農業・40代)は「あの時、御用学者の言うことを信じてしまったことが悔やまれてしょうがない」と肩を震わせた。


田中龍作ジャーナル | 飯舘村 御用学者に振り回されたあげくに

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訂正:質疑応答の「100マイクロシーベルト/hを超さなければ健康に影響を及ぼさない」旨の発言は、「10マイクロシーベルト/hを超さなければ」の誤りであり、訂正し、お詫びを申し上げます。ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ありません。
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いつのまにか、山下発言が「10分の1の数字に」訂正されているのです。

しかし、動画の質疑応答では、山下教授は自信満々で「100マイクロシーベルト/hを超さなければ、まったく健康に影響を及ぼしません」と太鼓判を押しています。

Q、今の放射能測定値で外出しても問題はないのか?

「環境の汚染の濃度、マイクロシーベルトが、100マイクロシーベルト/hを超さなければ、まったく健康に影響を及ぼしません。ですから、5とか10とか20とかいうレベルで、外へ出ていいかどうかということは明確です。昨日も、いわき市で答えました。『今、いわき市で、外で遊んでいいですか?』と聞かれました。『どんどん遊んでいい』と答えました。福島も同じです。心配することはありません。
・・・・・

100ミリを10ミリと言い間違えたのなら、「5とか10とか20とかいうレベル」という言い方はしないはずです。

福島県民の中には、山下教授の話を聞いて、100マイクロシーベルト/hまで安全、一度に100ミリシーベルト浴びなければ大丈夫だと信じて、放射線量が高いときにマスクもさせずに子どもたちを外で遊ばせてきた親がたくさんいます。ふとんも洗濯物も外に干してかまわない、雨に多少ぬれても問題ない、といった山下発言を信じてきた人がたくさんいます。


中村隆市ブログ 「風の便り」 - 山下教授が発言を訂正「100マイクロSVは、10マイクロSVの誤り」

山下教授フジテレビ今朝のトクダネで「20ミリを引き下げたら、避難させなければならないでしょ。これだけ大勢の人を、あなた何処に避難させますか?」(大意)と宣いました。


Twitter. It's what's happening.


公害訴訟の過去の事例に学ぶとき、そこからは次のような教訓を汲み取ることができる。

  1. 往々にして専門家による過小評価が被害を拡大させる。
  2. そのような過小評価は既成事実化される。
  3. それに対抗して被害者側が司法の場での判断を得るためには、多くの時間と費用とを費やす必要がある。


公害訴訟の歴史はこのような専門家、有り体に言えば御用学者との戦いの歴史でもあったと言える。


山下氏の言動はまさしく「リスクを過小評価する専門家」そのものだ。このような言動を繰り返してきた人物が、現地での信頼を得ることは難しいだろう。そして彼に対して「住民をモルモット扱いしている」「嘘つきだ」と憤る人がいるのも当然だと言える。

ここで取り上げたいのは「一般市民はゼロリスクを要求しているが、これは不合理である」という神話8だ。これは日本でもしょっちゅう見聞きされるもので、人によっては「ゼロリスク症候群」などと「病気扱い」した侮蔑的表現までしていることもある。まぁ、確かにどんなものであれ多かれ少なかれリスクはあるのは当り前であり、もしも本当に人々がゼロリスクを望んでいるとすれば、この非難は的を得ているといえるだろう。しかしPABEの調査結果では、人々はゼロリスクなど要求していないのだという。いいかえれば政策立案者や専門家の方が、「一般市民はゼロリスクを求めている」という「ゼロリスク神話」に囚われているというわけだ。

まず第一に、フォーカスグループの参加者たちは、「自分たちの人生がリスクに満ちており、リスク同士、あるいはリスクと便益とのあいだで釣り合いをとらねばならないということを完全に分かっていた」し、さらにいえば何事にも「不確実性」があるということ――たとえば科学的なリスクの評価結果にも不確実性はあるということ――も彼らにとっては至極当り前のことだったのだという。そんな彼らが求めていたのは、ゼロリスクではなくて、行政や専門家が、「リスクは無い」と言い切ったり、その基盤にある科学的判断の不確実性をちゃんと認めようとしない傲慢な態度を改め、意思決定のなかでもっと真剣に不確実性を考慮することだったのである。


STSNJ Newsletter / リスクをめぐる専門家たちの"神話" ※強調部分は引用者による


別に誰も、調査をすること自体を否定しているわけではない。このような状況になった以上、調査はやるべきだろう。しかしそれは、適切な情報開示とそれに基づく住民の合意形成とを前提としてなされるべきことなのだ。

そして原爆症認定の歴史にも見られるように、低線量被曝による被害はいまだに多くの人々がその苦しみを訴えている状況があるにも関わらず、疫学的に観測されていないのだから存在しないとされてきた。しかし今、まさにより多くの人々が新たにそのような状況に直面しようとしている。そうである以上、今必要とされていることは「リスクは無い」と語ることではない。むしろどのような「不確実性」が存在し得るのか真正面から向き合うこと、そして「不確実性」を前提とした被害の拡大を防ぐための施策と補償、それがまず求められていることなのだ。もちろんそれがなされるためには、福島の人々を孤立させないための社会の後押しが必要であることは言うまでもない。政治の場も司法の場である裁判所も、世論の動向に敏感である事は良く知られた事実である。実際、過去の公害訴訟において、世論の後押しが救済への道を開いたという点は重要だ。


ところで、蛇足かもしれないが移住リスクについても次のように考えることができる。
低線量被曝に関しては様々な見解があり、そのリスクを見積ることを困難にさせている。それに対して移住については、阪神淡路、雲仙、三宅島などでの長期避難の経験があり、何が避難した人々のストレスを増加させるのか、どのような避難のあり方がそれを軽減させるのかがある程度判明している。その前提に立てば、居住を続けて低線量被曝を重ねる状況と線量が低下するまで長期間の避難をおこなう状況とどちらがよりリスクの計算が容易であるかは明らかではないだろうか。

後は社会の側でどこまでサポートをする覚悟があるのかだけが問われることになる。要するに「ここまでしかコストは負えないから放射線管理区域レベルでの居住リスクを背負ってね」と言い放つのか、それともそうではないのか、ということだ。


(いろいろ端折りすぎですが、とりあえずこんな感じで。)