「駐韓大使一時帰国で思うこと」を読んだ人たちへ

先日書いた「駐韓大使一時帰国で思うこと - 諸悪莫作」ですが、はてブを中心にいくつかの反応をいただくことができました。
それらは興味深く拝見しています。ありがとうございます。


ところで。
あの文章はもともと考えの整理のために軽く書いたものであったため、ろくに推敲もせず言葉足らずな面が多々ありました。
そこで読んでくれた人たちへの応答も兼ねて、補足としての文章も書いておきたいと思います。


あの文章の主旨は大きく分けて 3つあります。

  1. 僕たちの社会は自身の振る舞いについて客観的に見ることができていないのではないか。
  2. アメリカなどの他地域に対する姿勢・関係性と比較して、韓国などの東アジア諸国への視点は著しくバランスを欠いていて、その背景には差別的な視点があるのではないか。
  3. 今後、僕たちの社会がこの出来事をどう評価するのかによって、ひとつのターニングポイントを迎えることになるのではないか。


第1点目。
今回いただいた反応の中で最も多かった内容は「たとえがナンセンス(日本とドイツは比較にならない、合意を破ったという状況に対してあのたとえは意味がない、あり得ない状況を持ち出しても意味がない)」といったものでした。しかし僕のたとえは的を外したものではないと思っています。
あのたとえの状況は確かに「あり得ない」ものです。しかしいったん「この社会の中」から離れて視点を変えた時、僕たち自身が気が付かないまま、その「あり得ない」状況の中にいるということが見えてくるのです。

再掲しますが、先の記事の冒頭で僕は BBC の邦訳記事へのリンクを掲載しました。このように国内メディアではなく、海外メディアの記事を選んだことには明確な意図があります。


読んでいただければわかると思いますが、この記事はメディア側の価値判断を明示しない中にも、明らかに「被害者の苦しみに向き合わない不誠実な日本」という言外の指摘が見え隠れしています。そして僕のたとえをナンセンスだと思った人たちには申し訳ないのですが、日本社会の現況が海外メディアではどのように把握されているのかについては、邦訳されている記事を少し探すだけでも理解することができます。


これらは軽く抽出してみただけなので、実際には邦訳されているものだけでももっと大量にあります。つまり僕が書いたたとえは的を外しているわけではなく、海外のメディアでは「日本社会が戦前への回帰を志向し始めている」という見方がそれなりに流通していると考えてもよいでしょう。ただこういったことを書くと、たとえば「でもル・モンドだし…」と言ったように、これらは媒体側の偏りに過ぎず、意に介する必要はないと考える人もいるでしょう。しかし記憶に新しいように、昨年、外国特派員協会での日本会議重鎮の会見が強い関心を集め、そしてその場でどのような質疑応答があったのかを思い出せば、海外のメディアが日本社会の情況に対してどのような関心を持ち、そしてそれをどのように捉えているのかは理解できるはずです。


そしてこの状況に対して「情報戦の結果だ」といったように即座に切断するような判断はあまり理性的とは言えません。一度、自身の感情を脇に置いた上で(僕自身はそういった見方は採用しませんが)少なくとも国際関係上の損得判断ぐらいはしてみたほうが良い、とお勧めしておきたいと思います。


第2点目。
今回、「韓国人は約束を守らない」といった極めて強い反感が生じています。いや「反感」というのはあまり正しい評価ではないかもしれません。「侮蔑」や「呆れ」といった、よりネガティブな反応が多く見受けられると言った方が適切でしょう。しかし一方で、アメリカのトランプがTPP破棄を明言した情況に対して「アメリカ人は約束を守らない」といった反発は起こりません。社会的・国際的な影響はどちらの方が上なのかは言うまでもないわけですが*1。また、年次改革要望書に代表される日本の政治情況への影響力や日米地位協定に代表される不平等、沖縄での基地問題*2など、アメリカと韓国、どちらが日本社会に対して抑圧的に作用しているのかは言うまでもないことです。


その非対称性を考えた時、韓国を始めとした東アジア諸国への価値判断の背景として、理性以外の要素が介在しているということが強く見て取れます。そこにはそれらの地域に暮らす人々への「差別」と言っても差支えのない偏見、侮蔑的な感情が先立っています。「そんなことはない」という人は、一度、自身の判断に先立つ「感情」に目を向けてみてください。それぞれのニュースに対して考えを巡らせた時、自身の中に理性以前の苛立ちや怒り、もしくは愉悦の感情が現れるようであれば、自分の価値判断に「バイアスが潜んでいる」という可能性自体を考慮してみて欲しいと思います。


第3点目。
「残念ながらこの社会は既にルビコンを渡ってる」というご指摘もありました。まったくその通りで、何年か前に書いたように、僕自身この社会はすでに最悪の状況の中にあると考えていました。


「最悪の事態」 - 諸悪莫作


ただその上で、この件が支持を集めた場合、国際的な情況とも相まって対外的な強硬策が政権を駆動する…という画期になり得ると思っています。その意味で、もし支持率が上がるようであればこの社会は完全に一線を越えてしまったことになるだろう、と考えたのでした。


長くなってしまいましたが、最後に。
僕はずっと、「領土」や「国家」「人種」といった概念と自身を同一視したり、そのことによって縛られて、不自由するようなことは嫌だな、と考えてきました。

事態は最も緊急なぎりぎりの意味で、生死にかかわるほど重大です。というのも、私とあなたとはだれであり何であるかということ、彼と彼女とは、「われわれ」と「彼ら」とはだれであり何であるかということ、そういった初歩的な社会的空想に、世界が結ばれたり切り離されたりするということが基づいているからです。--- つまり私たちが死に、殺し、食いつくし、引き裂き、そしてばらばらに引き裂かれ、地獄に降りて行き、あるいは天国に上るということが --- 一言にして言えば、私たちが自らの生を生きるということが --- それに基づいているからです。
(中略)
多数の他者の行動をコントロールしようと求める人々はすべて、そういった他者の経験に働きかけます。ひとたび人々が同じような仕方で状況を経験するようにしてやることができれば、彼らは同じような仕方で行動するよう期待されうるのです。すべての人々が同じものを欲し、同じものを憎み、同じ脅威を感じるようにしてやれば、それで彼らの行動はすでにその虜になったようなものです。 --- つまりあなたはあなたの消費者やあなたの兵隊を手に入れたのです。黒人を下位の人間と認知したり、白人を悪意のある無力なものと認知したりする共通の見方を持たせると、それに応じた行動がとられるようになるのです。


経験の政治学 P100 - 101

経験の政治学

経験の政治学


不自由であるということは自身の選択肢を狭め、容易に他者から操作されてしまうということも意味します。
僕はそんな人生はまっぴらごめんだし、また他の人たちがそのような状況の中で摩耗していく姿も見たくないな…とそう思うのです。

*1:ちなみに僕自身はTPPという枠組には反対です。念のため。

*2:実際には「沖縄の問題」ではなく「本土の側の問題」なわけですが。