まずは極私的な感情から

昨日のエントリで「思うところはいろいろあります」と書いた。その「いろいろある」中で、特に極々私的な感情について、まずは吐露しておきたい。


つい最近まで、僕はしばらくこのブログの更新を怠っていた。そしてそれを再開するにあたって、いくつかの事柄を自身に課そうと考えていた。それは、他人に対して政治的な踏み絵を迫るような言動、党派性を伴った脊髄反射的な反応、そういった言動は絶対にすまい、というものだった。だから、その戒をいきなり破ってしまったのではないだろうか、という思いが「いろいろある」中にうっすらと漂っている。しかし同時に、それでは何も語らなければ良かったのかと言えば、それは違うだろう、とも感じている。

いずれにしても、おそらく僕は何かを言わなければならなかったのだろう。あのような表現の仕方が妥当であったかは別にして。そして正直に告白するなら、この件に関して僕はいまだに、はらわたが煮えくり返るといった表現が相応しいほどの憤りを抱いている。ただこの怒りは、決してid:rnaさん個人に向けられたものではなく、この事柄の捉えられ方、語られ方に対して向けられているのだと、はっきりと表明しておきたい。素に戻って今の気分を表現するなら、あぁ、まじでむかつくぜ、くそったれ!って感じだよ。

おかしいですよね (2)

ホームレス差別と僕の失言について - rna fragmentsへの再応答も兼ねて、長居公園の出来事に関して交わされた様々な議論について、思うところをつづっていく。


この事柄を語るにあたっての前提として、ひとつだけ、はっきりとしていることがあるように思える。この文章を書いている僕も、この文章を読んでいる貴方も、おそらくは空調の整った空間で、清潔な身なりで、この文章を書いたり読んだりしている。そして、街を歩いていて好奇の目で見られることもないだろうし、今夜の寝る場所や食事について不安を抱くこともない。また、ささやかな喜びに投資するぐらいの余裕も持っているだろう。僕たちにとって、野宿生活者が公園から排除されたという出来事はネットを彩る様々な話題のひとつに過ぎないのかもしれない。しかし当事者にとっては、それは一過性のイベントでは終わり得ないし、身体に関わる、極めて緊急性の高い出来事なのだと言える。私たちの大半は、そのような立場の位相からこれらの事柄を語っているのだということを、まずはじめに強調しておきたい。

さてそれでは、id:rnaさんの「人に危害を加えるつもりはなさそうだった」という表現についてまず触れていきたい。と言うのも、僕の前回の発言*1はこの表現に対する誤解から生じたのではないか、と考えている人も少なからずいるようだからだ。実際この表現については、おそらくはてなブックマーク - ホームレス差別と僕の失言について - rna fragmentsで猿虎さんが指摘されていることが正しいように思える。「人に危害を加えるつもりはなさそうだった」という表現を、人間に対して使っている文章に私は寡聞にして触れたことがなかった*2。そのことが、僕の表現が強くなってしまった原因であるということは、確かにそうなのだと思う。

しかし同時に、もし仮に「人」を「他人」に置き換えたとしても、事態は何も変わらない、とも言える。たとえば路上で身体を露出することを好む人間は、どの社会においても一定数存在する。だからと言って私たちは、「アメリカでストリーキングがいた、だから『アメリカ人は怖い』と思うことにも一理ある」といった話はしない。にも関わらず、野宿生活者にはそのような表現が適用されてしまう。この表現に関して言えば、単純にそういった次元の話に過ぎない。

ところで、この種の議論における「怖い」という感情の捉えられ方にも同様の顛倒が存在する。たとえば、「イスラム教徒は怖い」と語られるとき。その「現実」の中では、「イスラム教徒はテロリスト」となっていく。そのようにそれらの感情の布置は、それを抱いた当人もしくは集団の内部では完結し得ない。そして実際に、その投影の対象となる人びとを巻き込み、その現実の在りようにも影響を及ぼしていく。確かに様々な感情の力動は人間を簡単に圧倒する。そのようにコントロールできないものだから、「怖い」という感情の現出も、そのこと自体によって否定されたり、批難されたりするべき事柄ではない。しかし、そのような感情によってすでに対象と関わりを持っている以上、僕たちは、それを安易に取り扱うわけにはいかなくなる。

僕たちの社会において大勢を占める「野宿生活者は怖い」という感情と、現実に野宿生活者が置かれている状況、そして、今回の排除。それらに関連がないと言うならば、それは奇妙なことだと言わざるを得ない。そのような事態を招来し、そして許容してしまう、その状況と、この感情とが無関係だとはたして言えるのだろうか。もしそのように語れるならば、それは欺瞞と言ってもいい。そして、それらの感情に関しての、「必ずしも差別意識があったとはいえない」という語られ方についても同様のことが言える。自覚がないから差別ではないという物言いは、端的に詭弁でしかない。なによりも、差別であるか否かの判定を、ある意味では排除する側に立っている僕たちが、一方的にできるなどとは言えないだろう。

しかしまた同時に、この「怖い」という感情は排除する側にある僕たちの在りようにも関わってきている。特定の社会階層に対してそのような感情が不条理にも投げかけられるという事実は、実際には僕たちの抱えるひずみを、そして僕たち個々人が日々抱える苦悩をも、示しているのかもしれない。彼らをそのように扱うとき、僕たちもまた、程度の差はあれ社会において、自身をそのように扱っていると言えるだろう。実際、野宿生活者に投げかけられる「社会に甘えるな」だとか、「人に迷惑をかけるな」といった言葉は、日々僕たちを苛む言葉でもある。だから実際には、排除する側と排除される側、その境界は曖昧なものであり、背景、時代精神を同じくするものなのだと言える。そしてそのような意味においても僕たちは、この感情に関して、単に「しょうがない」で済ますわけにはいかない。

そして最後に。もちろん僕もまた、冒頭に書いたような状況から、つまりある意味では高みから、このような事柄を語っている。だから僕は、僕の語りも含めて、それらが現実と比して、あまりにも軽いと感じる気持ちを抑えることが出来ない。そして、こんな語られ方、こんな見なされ方、おかしいですよね、と叫びたくもなるのだ。