なぜ僕は国会前に立ったのか

ここ2ヶ月近く、僕は国会前の抗議活動に参加し続けていた*1

抗議活動の現場に立ちながら、なぜ自分はこの場に立っているのだろうか、このことをきちんと言語化すべきではないだろうかと、ずっと思い続けていた。法案は可決したものの安保法制に端を発した様々な動きはこれで終わるわけではない。だから今はまだ「一区切りついた」と言うべきタイミングではないだろう。ただ、なぜ自分は国会前に立ったのか、それを整理するにはちょうど良い機会なのかもしれないと感じている。だからこうして、僕はこの文章を書いている。

まず始めに書いておくと、国会前を象徴として全国で繰り広げられている一連の運動を僕は素晴らしいものだと思っている。ただその理由を明確にする前に、一連の運動の中で感じた違和感について大事なことなので少し書いていきたい。

安保法制に反対する人たちが好んで使う表現の一つに「平和国家日本」という言葉がある。抗議活動の現場に立ちながら、僕はそういった言葉遣いに違和感を抱き続けていた。客観的に見てその「平和国家日本」の歩みは常に後退の連続だった。警察予備隊の創設に始まり、近年もPKO協力法、自社さ連立における左派の転向、周辺事態法、テロ特措法、イラク特措法…少しずつ少しずつ、僕たちは妥協をし、もしくは馴らされて、今に到る道が舗装され続けていった。

いや、後退の連続ということであればまだ良かったのかもしれない。もともと僕たちの社会は、戦後、あのような事態に到った歴史的状況を自分たちの手で総括するという機会を持つことがなかった。たとえばドイツのように、指導層や戦時犯罪者たちを自分たちの手で裁くということをしなかった。もちろんドイツのようなあり方が正しいのかは議論の余地があるだろう。しかし、自身の共同体が犯した過ちを社会の同意事項として確定させる、そういった体験を自らの手で産み出すことがなかったという事実は、今日の状況を考える上で、そして「戦争」に向き合う際のこの社会の姿勢を考える上で無視することのできない大きな要素だと言える*2。また日本国憲法に対して「押し付け憲法」という揶揄がおこなわれるのも、結局のところそれが自分たちの営みの中から産み出されたものではなかったという事実に起因する。戦争の惨禍を経て多くの人たちが今の日本国憲法を歓迎したという事実はあるにせよ、いずれにしてもそれはこの社会が主体的に選択をし、産み出した結果ではなかったのだ。

敗戦直後は多くの人が生きることに精一杯だった、そういった主体的な選択をおこなう余地はなかったのだと言うこともできるかもしれない。しかし、かつての植民地だった朝鮮半島で凄惨な戦争が起きた時、この社会は自分たちの植民地支配の帰結としてそれを捉えることができなかった。むしろ奇貨として経済発展を遂げていくことに利用していくばかりだった。自分達の暮らす社会がベトナム戦争の前線基地となった時も、この社会の大多数は無関心を決め込んだ。アフガンやイラクへの攻撃、その中で所謂「テロ」とは無関係の市民が何万、何十万と殺されていった。どうか想像して欲しい。その過程での犠牲は311の災厄ですら比ではないということを想像して欲しい。その行為を明確に支持しそして支援したのも、この社会が選んだ政府だった。そしてその状況に対して広範で持続的な抗議の声が起きることはなかったのだ。

安保法制成立をこれらの戦後の歩みの延長線上として考えるなら、単にそれは「既定路線上の当然の結果だった」とも言える。だから僕は今回の運動で多用された「平和国家日本」「70年続いた平和」といった言葉遣いを好ましいものだとは思わない。その言葉を使っている人たちには申し訳ないけれど、もともと僕たちの社会はその本質において「平和を希求する社会」と言える代物ではなかった。自分たちで主体的に選択した平和というものを僕たちは獲得してはいなかったし、自分たちの加害性にも無自覚なままだった。右手のやっていることを左手は知らない。一方でアフガンやイラクでの殺戮に加担をしながら、一方で「平和国家日本」と言う。

よく「一国平和主義」といった揶揄が使われる。その言葉を多用する人たちの意図とは別に、その言葉は僕たちの社会の一側面を良く捉えている。311以降に始まった脱原発運動もそうだった。都市部在住者を中心に多くの人が自身の日常が破壊される事態を恐れ、あるいは怒り、声をあげた。そしてその流れの中で311以降の運動、特に今回の安保法制に対する運動では子連れの参加者が増えているという顕著な特徴が見られた。それは子どもたちが生きていくこれからの日常に不安を抱いている人たちが大勢いるという証しでもあるだろう。そしてその抗議の言葉として「平和な日常」が強調された。つまり、今の自分たちの日常を壊すなというわけだ。

僕は現場で見ていたから、そういった言葉を使っている人たちの動機は純粋なものだと感じるし、また真摯な気持ちに突き動かされている様も良く知っている。でも自分たちの社会がどのようにして今に到ったのか、そしてその日常によって維持されていた世界とはなんだったのか。そのことに向き合うことが無ければ、それはただの「生活保守主義」の運動で終わってしまう。そしてそれは今までそうであったように、三歩下がって一歩進むといった程度の妥協と後退、馴致の道に他ならない。そしてその姿勢は「(生活のためには)経済が重要だから」と言って安倍自民に投票するような政治姿勢と、本質的には何も変わらないことになってしまう。

そして今ある日常を守ることに留まってしまうなら、安保法制賛成派の人たちの「それでは安全保障をどう考えるのか」といった批難に対しても誤魔化しの回答しかできなくなってしまうだろう。結局のところ本土に暮らす僕たちの「平和な日常」は、沖縄の人たちの「基地のある日常」と裏表の関係になっている。沖縄に米軍基地を押し付けることで僕たちの日常から「安全保障」は排除され、だから安心して「平和な日常」を唱えることができる。また逆に自分たちが殺し殺されることへの想像を欠いたまま「安全保障」を口にすることすらできてしまう。しかし本土に暮らす僕たちも 、ひとたび沖縄の「日常」と向き合い誠実であろうとするならば、自分たちの手と頭で「安全保障」という概念と向き合い、そしてそれを超えていかなければならなくなる。

そして僕たちの「日常」の延長線上にある概念として「安全保障」を捉えるとき、「国民国家」という概念にも向き合う必要が出てくる。今回の運動では「国民」や「有権者」といった言葉が多用された。それらの言葉は、自分たちの権能に従ってその「責任を果たす」ということを強調するために使われていたことは良くわかる。でも僕はそれらの言葉を聞く度に「なぜ境界を維持し続けようとするのか」という思いを禁じ得なかった。その「国民」や「有権者」という言葉に含まれる人たちは誰なのか、含まれない人たちは誰なのか。そのことによって僕たちは何を維持しているのか。

アメリカでは銃を持つ権利が主張される。日本に暮らす僕たちから見たとき、その相互不信の徹底と過剰なまでの恐れは、何か異常でグロテスクなものに見える。しかし話が「国家」の安全保障に移ったとき、まるで催眠にでもかかってしまったかのように、同様のグロテスクさが集合的に適用されることに何の疑問も抱かなくなってしまう。リベラルを自認する人たちでさえ「それは個別的自衛権の範疇で説明がつく」「これは周辺事態のままで対処ができる」などとあっさり語る。しかしそこには、自明のように共同体に内と外とが存在すること、そして僕たち自身が手を下して「外の人々」を殺すという状況、それらへの戸惑いが微塵も感じられない。

僕たちが「国民」という言葉を使うとき、たとえば「在日」の人たちのようにこの社会の内においてもそこから除外される人たちがいることを、そしてその言葉遣いによって「安全保障」という概念が自明のものとして扱われるという事実を、一度、想起するべきだろう。 そしてそれが自明のこととして扱われることに一人の人間として、同じ人間として、戸惑いを感じていない自分を冷静に見つめてみる必要があるはずだ。

日常はかけがいのないものだ。僕たちを育んできた生活そのものであり、そこからはじめるしかない全ての基盤でもある。でもだからこそ、運動を開かれたものとするならば、その場で扱われる「日常」の概念は拡げていかなければならない。「日常」という言葉を自分たちの生活に居直るために使うのではなく、世界の多様な現実を包摂する概念へと拡げていく。僕たちの「日常」から除外された日常、そしてその「除外された日常」を生きる人たちに、そこにも届く言葉を、声を、僕たちはあげていかなければならない。人間としての共感と連帯の気持ちとを土台にして、今は無い「日常」を構想する。自明のものとされる共同体を超えて、底のところで通じる言葉を僕たちは紡いでいかなければならない。その過程で僕たちの「日常」も変容せざるを得ないだろう。そして今は存在しない「日常」へと到る過程を、ぬくもりある「日常」として僕たちは歩いていく。


僕が国会前に立った理由。
それは結局のところ、僕にはそれが良いものだと思えたからに他ならない。多くの人たちが路上に出て政治的な主張をおこなう。多様な意見、多様な社会的立場を持つ人々が、多様なままで公共空間に集まり、声を上げる。それは生(ナマ)の政治であり、本質的な意味で民主的なものだと言える。一般には代議制が民主主義のあるべき姿であり、投票こそが政治的主張の王道だとされる。しかし人間を一票に還元する代議制は、多様な人々の想いを受け止めるには極めて貧弱なものだ。そして今回のように議会で多数を占めた勢力が市民の意向を無視したとしても、少なくとも次の選挙がおこなわれるまでの間、その居直りを許してしまう粗い欠陥だらけの制度だとも言える。代議制が民主主義のあり方として採用される理由は、単に技術論に過ぎない。そしてそれはあくまでも民主的な社会の一過程に過ぎないのだ。

僕たちの社会は政治的主張を忌避する。政治的主張をおこなうことは、言ってしまえば生の自分をさらけ出す行為でもある。だから僕たちは社会生活の中で生の自分をさらけ出すことを、そして傷つくことを恐れる。それは同時に、この共同体において多様な見解を許容した上での連帯が、そして温かみが存在しないということでもある。デモや集会を忌避する様々な言説や批難も、結局のところ「自分たちにはそのような権能はない」という悲しく痛ましい絶望の表明に他ならない。ネット空間に氾濫するそれらの言葉は悲痛な叫びであるかのようだ。そしてそのような絶望が、その絶望の結果としての冷笑が、独裁的な統治権力の源泉なのだ。

だから僕は路上に出ることを、多くの人がその決断をおこなったことを、本当に素晴らしいことだと思う。2000年代初頭から始まった様々なデモの文化、そして311後の官邸前抗議の継続。それらの下地の中からようやく社会的に可視化され得る動きが生まれたのだ。この社会において掛け値なしに画期的なことなのに、その価値がまだ十分に理解されていないとすら思う。世界は漸進的に進まざるを得ない。この文章でもいろいろと書いたとおり、この路上を中心とした流れはまだまだその端緒についたばかりで、問題だらけでもある。でも一方でその取っ掛かりとしては十分過ぎるほどじゃないかとも思う。生活保守に流れかねない言説にしても、全ての人が同じスタートラインにいるわけではない以上、その認識が「今ある日常」から始まるのも仕方がないことだ。警察との距離感だったり他にもいろいろと問題があるけれど、いずれにしても、この流れはまだまだ学びを始めたばかりなのだ。

そして何よりも。少し気恥ずかしいことを書くけれど、僕は確かに、あの現場で肯定的な光のような何かを感じたのだった。そこに集った人たちの、一貫して前向きで希望を捨てない姿勢が好きだった。そしてその場にいた人たちに対して、全国で同じように路上に立つ人たちに対して、強い親近感すら抱くようになっていた。異なる点はあるけれど、けっこうむかつくところもあるけれど、それでも僕とあなたは仲間だとずっと感じ続けていた*3

社会は一足飛びに変わるものではない。だからひとつひとつ、積み上げていかなければならない。権力を甘く見てはいけないけれど、同時に慌てる必要はない。焦る必要もない。今ある現実をそのようなものだと受け入れた上で、自分が思うところに従って、できることをひとつひとつ積み上げていく。同時に自分たちが自明だと思っていることを、ひとつひとつ崩していく。そして何よりも自分たちの言葉が届くところに丁寧に言葉をつないでいく。自分たちの日常の営みとしてそれを繰り返していく。ただただ、それを続けていく。ただただ、それを続けていこう。

そして仲間の皆さん、これから仲間になるかもしれない皆さん。もしもこの先、道が交わることがあるのなら。そのときには路上で会いましょう。

*1:参加していたと言っても、後述する違和感からシュプレヒコールを唱和する事はなかったけれど。

*2:率直に言えば、それができなかった大きな要因は天皇制にあることに疑う余地は無い。つまりこの社会は「天皇を裁く」という状況を恐れたのではないのか。

*3:もちろん、この一連の流れの中で逮捕された人たちも仲間です。そのことにピンとこない人は少し考え直した方がいい。