「保育園落ちたの私だ」を忌避する人たちへ

保育園落ちた日本死ね!!!」をきっかけとした流れから、国会前での抗議活動がおこなわれた…ということがニュースになっている。

「保育園落ちたの私だ」。そんな紙を掲げた人たちが5日、国会前に集まった。子どもが保育園に入れなかった人、子育てを終えた人、これから子育てする人など、約30人。深刻な待機児童問題に危機感を抱いた人たちがツイッターを通じてつながり、雑談しながら立っているだけの、静かな抗議行動だ。
(中略)
ツイッターでは「#保育園落ちたの私だ」というハッシュタグ(検索ワード)ができ、「多くの人が同じ問題を抱えている」と批判が渦巻いた。その中から、「国会前へ」という呼びかけが生まれた。


http://www.asahi.com/articles/ASJ35540VJ35UTIL00N.html


以前書いたとおり、僕はこのような動きは素晴らしいものだと思うし、もっともっと日常的なものであるべきだとすら考えている。

多くの人たちが路上に出て政治的な主張をおこなう。多様な意見、多様な社会的立場を持つ人々が、多様なままで公共空間に集まり、声を上げる。それは生(ナマ)の政治であり、本質的な意味で民主的なものだと言える。


なぜ僕は国会前に立ったのか - 諸悪莫作


ところで、はてブTwitter などを眺めていると「ネットで話題になっている間は良かったけれど実際の抗議行動になると胡散臭く感じる、冷める」といった感想を持つ人がそれなりにいるようだ。


はてなブックマーク - 「保育園落ちたの私だ」 国会前で抗議行動:朝日新聞デジタル


でもそう感じた人は、冷静になって想像してみて欲しい。あえて卑近な譬えで書くけれど、たとえば


あなたの所属する学校や職場で、いじめがあったとする。そしてあなたを含めた何人かが、それに苦しんでいたとする。
あなたはネット上でそのことへの不満や怒りの発言を目撃し、共感する。自分でも賛同をする意見を書いてみたりもする。
でもあなたは学校や職場では何も言わない。それを日常だと思って受け入れてしまっている。
そんな中、そんな状況に声を上げ、実際に抗議をする人が現れた。


その時、あなたはその人に対して怒りや嫌悪感を抱くだろうか。そういった行動はやめるべきだ、迷惑だと感じるだろうか。もしそのような気持ちを抱くとしたら、客観的に見て、そんな自分に矛盾を感じたりはしないだろうか。

もしネットでの発言は許容できたのに、現実での抗議行動に嫌悪感を抱いてしまったのだとしたら。自分の心の中のその嫌悪感の正体を見つめてみて欲しい。この社会で生きていく中で、知らず知らずのうちに声を上げることを恥ずかしいと思う気持ち、自分の気持ちをさらけ出すことで自身の生活や立場が傷ついてしまうという恐怖感を内面化してしまってはいないだろうか。誰に向けていいのかわからない怒りを抱え、同時に、声を上げ怒りを表明している人に対して、思わずそういった自分の怒りを向けてしまう傾向はないだろうか。声を上げる人たちに対して「自分の日常を破壊するモンスター」のようなイメージを投影してしまってはいないだろうか。

誤解しないで欲しいのは、僕は別に馬鹿にしようと思ってこれを書いているわけではないということだ。ただ、この日本の社会の中で生きていく中で、「自分は声を上げる力を持たない」という感覚、そしてそれを維持していこうとしてしまう感覚を習慣化し、そして内面に固定化してしまっているということに気が付いて欲しいと思うだけだ。矛盾した状況を受け入れてしまい、それでもその日常の中で過度に自分を律してしまうための「偽の理屈」を、自分の中に作り上げてしまっているということに気が付いて欲しいのだ。


そして何よりも。
国会の前に立った人たちは、彼らはあなたが本来持つ力をあなたの代わりに見せてくれている人たちなのだということに、あなたが本来持つ力を取り戻す、そのきっかけを与えてくれる仲間なのだということに気が付いて欲しい。僕たちは、もっと素直に、もっと自然に、もっと気軽に、街に出て声を上げてもいいのだから。


(追記)
コメントやはてブで「ネットでの抗議よりもデモを特別視するのはなぜか」という観点での意見があったので、そのことに簡単に触れておきたい。
「国会前」というものは言ってしまえば「天安門」みたいなもので、シンボルとして機能するもの、社会のひとつの焦点となり得るものではある。だから僕はそこに人が集まることに意味を見出してはいるけれど、でも当然、その場で完結する必然性はどこにもない。なにより僕自身、今はこうやってネット上に自分の意見を上げているわけで。声の上げ方、声を上げる場は人それぞれで良いし、まずは自分のできる範囲で肩肘張らずに、ひとつひとつやっていけばいいのだと思う。当然、その過程でコンフリクトもあるだろうけど、その葛藤を認めたうえで緩やかに繋がっていければいい。それが政治だし、それが社会と言うものだ。
でもその上で。やはり直接行動をするということは、この社会ではリスクを負うことになるということに疑う余地は無い。実際、ネットで示される嫌悪感、忌避の感情が端的にそのことを現している。そして「ネットでの抗議よりもデモを特別視するのはなぜか」という物言いが、そういった忌避の感情を正当化するために使われるのであれば、僕としては「それは違うよね」と言っておきたい。ネットでも声を上げる。路上でも声を上げる。できる人はできることをやる。単に、それでいいじゃないか。