立脚

靱で、そして大阪城で、生活の場を奪い取られた方々がいる。
そのような事態に、そして、少なからずあるそれらの人々を侮蔑する表現に対して、僕は憤りを禁じ得ない。


でも、それ以上に、このような想いが沸き上がってくる。
なぜ、この世界は、人間は、こんなにもぶつ切りなのだろうか。
なぜ、こんなにも隔絶して僕たちは生きているのだろうか、と。


以前このブログに、新宿でバイトをしていた時の体験を書いた
その時のことを、また思い出している。


あの時、お婆さんは何かを訴えるかのように周囲に向かって叫んでいた。
雑踏は、まるでお婆さんなんて存在しないかのように、いつものように、流れていた。
お婆さんの車椅子はチューブの空気が抜けていて、タイヤはフニャフニャになっていた。
押すと、キシキシと音をたてるような有り様だった。
僕はバイトの休憩時間で、きれいに洗濯された、バイト先の制服を着ていた。
僕がお婆さんの車椅子を押している間、私鉄の職員たちは、まるで奇妙なものでも見るかのように、僕たちを見ていたのだった。


その立つ位置によって、人の世界は変貌する。
あの時僕が踏みしめていた場は、それ以前のものとは、わずかにずれていたのだ。
そしてその時から無自覚のうちに、世界は異なるものとなり始めていた。
確かにその体験は、僕を、僕の世界を、僕の人生を、変えつつあるのだ。