見てしまったこと、について

sumita-mさんによる、「見てしまったこと」を巡る考察。とても勉強になるし、何よりも、いろいろと考えさせられる。


http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060829/1156827266


特に、このくだり。

生について、一般項として語らせようとする、そのこと自体が既に罠なのであり、また一般項として言明しようという誘惑にも抵抗していかなければならない。「きっこ」さんに戻ると、「目の当たりにしてしまった」レヴェルに拘りながらも、誘惑に抗しきれずに「一般項」のレヴェルにジャンプしてしまったというのが彼女の誤りといえるのではないか


なるほど、と思う。


「見てしまった」という関係性は、とても不思議に思える。それは確かに、個人的な生の体験だ、とも言える。だからこそ、『誘惑に抗しきれずに「一般項」のレヴェルにジャンプしてしまったというのが彼女の誤りといえるのではないか』、と言うこともできる。つまり、それはそのままでは普遍性を持ち得ないものだ、とされる。


ところで、「見てしまった」と言う以上、それは孤独のうちに存在する体験ではない。内に由来するにせよ、外在的なものにせよ、それは、「出会い」だと言える。そして、その出会いについて --- その生の体験について --- の言説に触れたとき、わたしたちもまた、何かに出会ってしまったことになるだろう。


それらの生の体験を語るとき、『一般項として言明しようという誘惑』というものは確かに存在する。まさしく、それはわたしたちを陥れようとする罠であるかのようにも感じる。そして、実際にそうなのだろう。


しかしそれではその、『一般項として言明しようという誘惑』とは、いったい何なのだろうか。他者へと語るとき、わたしたちは理解されることを願う。そこにはすでに、一般化への指向、普遍性への欲求が兆しているようにも見える。


不思議なことだ、と思う。そもそも、普遍性とは何なのだろう。それが人間に由来するならば --- ないしは少なくとも人間を介して表象されるのであれば --- 、それは、個別の生の体験から出発せざるを得ないだろう。


そして、わたしたちは語る。語る、と言うからには、それは独白であったとしても、やはり孤独のうちにある行為ではない。他者へと向けて語り始めたとき、そこには既に、一般化への指向、普遍性への欲求が存在している。


それは、生がその正統性を、偽ではない真実としての承認を求めているかのように、、もしくは、世界が、生を通じて正しく位置づけられることを要求しているかのようにも感じられる。そして、そのような要請は、出会いそのものに、すでに織り込まれているようにさえ思える。


わたしは出会う。わたしは語る。わたしたちはそれに出会う。わたしたちは考える。それらの織りなす世界を、そのような要請として捉えるならば、、単に「個人的な生の体験に過ぎない」と語るとき、果たして、わたしたちはそれを「見ている」、と言えるのだろうか。それとも、「見ていないふりをしている」、のだろうか。


わたしたちは、すでに「見ている」、ないしは、常に「見ている」、と言えるのかもしれない。なぜなら、もう出会ってしまっているのだから。だから、そこにあり得るのは「一般項への飛躍」ではない、「見てしまった」もしくは「見ていないふりをしている」、そのいずれかの行為だけなのだ。


そして、このように思う。『一般項として言明しようという誘惑』が罠であるならば、個別的な生からの要請を『一般項への飛躍』とする語り口もまた、同様に罠なのではないだろうか、と。そのことによってわたしたちは、「見ていないふりをしている」。


昨今の日本の社会に飛び交う言説は、たとえば辺見庸が言うように、恥辱にまみれているように思える*1。僕は、辺見に強く共感して思う、この社会には今、恥ずべき腐臭が漂っている、と。


しかし、その腐臭は何を語ろうとしているのか。その腐臭の背景にいるわたしたちは、何を語ろうとしているのだろうか。僕としては、それらの腐臭ですら、いや、腐臭であればこそ、その背景に対して、誠実でありたいと願う。その背景にある生に対して、見ていないふりをしているわたしがある、とも思うからだ。

*1:辺見庸いまここに在ることの恥」。今の社会について考察するなら、必読だと思います。