私たちのファシズム

私の周辺にはこのファッショ状況を喜ぶ者は一人としていない。皆が眉をひそめている。同時に、ファッショと本気で闘おうとする者も一人としていはしない。「いやまったく困ったものですな・・・」と、どこか嘘くさく首を振りふり愚痴るのみである。そういった翌日には職場で精励恪勤。だれもが良識派を気取るけれど、発言になにかを担保することも、傷つけることも、傷つくこともない。かくして日常に潜むファッショ菌の総量は一向に減ることはないのである。

新しいファシズムはかならずしも強圧的ではなく、「公共の福祉」の名の下に人びとに柔らかな合意をとりつけるそれである。石川淳が『マルスの歌』を書いたときのように、一部の知的サークルが「彼らのファシズム」として責任を他者に転嫁しえたような乱暴でわかりやすいそれではない。いまふうのそれとは、合意をたてまえとし、われ知らず内面化された「私たちのファシズム」である。


これらの文章は、辺見庸の2003年の著述から引用した。


抵抗論―国家からの自由へ

抵抗論―国家からの自由へ


僕達の多くは --- 当然、僕も含めて --- 衝撃を持って先日の総選挙の結果を迎えた。
でもそれは決して、今に始まったことでは無かった。


まずは日常の感性を疑う --- そこから始めなければ。