女人禁制というものへの簡単な感想

大峰山の女人禁制の問題が一部で話題になっている。
その議論の捕捉のためにはてなキーワードをつくってみた。キーワードのコメント欄にも書いたが、とりあえず辞書的な意味のみを記述してある。


女人禁制とは - はてなキーワード


この件に関しては、僕は大峰山の伝統というものを良く知らないし、また、この問題の発端となった人々の主張もまだ良く調べていない。なので、あまり軽率なことを書くべきではないだろう。しかし、様々な議論を読んでいて気になった点があるので、そのことにだけは軽く触れておきたい。


今回の発端となった人々の質問状の内容などを読んで、違和感を覚える人は少なくないようだ。他ならぬ僕自身も、やはり違和感を覚える一人だ。


参考:Archives - 内田樹の研究室


しかし、それに対する様々な反応に対して、僕はそれ以上の違和感を禁じ得ない。


例えばインドのカースト制度を、宗教的な伝統だとして肯定する人間は、少なくとも現代の日本社会においては少数派だろう。
社会の集合的な合意が絶えず捉え直され、変更を迫られるように、集合的なイメージもまた、常に捉え直されなければならないし、実際に変化というものから免れることはない。カーストのある社会に釈迦が出現したように、律法の地で福音が説かれたように、イメージもまた、(合理的な文脈と同時に)そのイメージとしての文脈において、常に更新がなされてきた。(そして当然それは、信仰や伝統を担う当事者の内から、もしくはそれに寄り添うようにして、捉え直される必要があるのだろう。)


これは、「地元の人々の信仰を踏みにじった」と言って済ますべき問題では無い。ましてや「踏みにじる」のは、一方だけであったり、その当事者達だけであったり、ということはないのだ。「踏みにじった」とただ叫ぶだけのその鈍感さでは、取りこぼしてしまうものが、必ずある。

追記 2005年11月9日 午前

信仰や伝統といった他者の内面に関わる要素は、当然尊重されなければならない。そして、他者の内面を踏みにじるような行為には慎重であるべきだし、実際に踏みにじるような行為は、そのことによって批判の対象となるだろう。しかし同時に、「踏みにじった」として批難されている対象の、その動機となった内面に対してもまた、同様の視点が必要なのではないだろうか。


繰り返しとなるが、信仰や伝統といったものは不変ではない。常に変化し、捉え直される対象でもある。信仰や伝統が、それ自体においてただちに首肯されるべきものだという謂われは、どこにも存在しない。(他者の内面に踏み込む倣岸さを承知であえて書くならば、「生きた信仰」とは、倫理的な対決を経ることによってこそ、培われるものではないのだろうか。)


この問題に限った話では無いけれど、「信仰だから」「伝統だから」と言ってただちにそれを肯定してしまうナイーブさが大勢を占めることに、僕は居心地の悪さを禁じ得ない。そう叫んでいる外野の人々の多くが、信仰や伝統を担っている人々の内面に寄り添うような視点を、実際には全く持ち合わせていないように感じるのも、その居心地の悪さを加速させている。そういったヒステリックな叫びには、地元に住む人々に対しても、今回問題の発端を生み出した人々に対しても、同様に共感なんてないじゃないか、踏みにじっているのは誰なんだよ、と僕は思ってしまうのだ。