神秘的融即

風邪が流行っている。僕は虚弱なうえに、流行りものに弱い人間だったりする。だからなのか、いともたやすく風邪をひいてしまったうえに、あっさりとそれをこじらせてしまった。そのせいでここ数日、判断力が著しく低下しているのを感じている。そしてそういった時には、普段ではしないような稚拙であったり、乱暴であったりする言動をしてしまいがちで、自分にそういった側面があることに気が付くこと自体は悪い話では無いけれど、できれば、それをやってしまう前に気が付きたかったな、などと何度も思うのだった。


これから書く内容は(ブログで「書く」という表現も妙だけど)、ここしばらくの間、書くべきかどうか、そして公開するべきかどうか、さんざん迷っていた事柄であったりする。でも、せっかく判断力が低下したのだから、その判断力の低下を言い訳にして、思いきって書いてしまうことにした(もちろん、実際にはそんなことは言い訳になんてならないのだけれど)。ただ、このエントリのタイトルを読んで、そこにある種のいかがわしい響きを感じてしまった人は、ひょっとしたら、読み進めるうちに不愉快さを覚えるかもしれない。だからそういった人は、ここから先は読まない方が良いと思う。


さて。
僕は以前から、ブログ上に夢の記録をつけ続けてきた。でも実際には、ほぼ毎日のように夢を見ているので、相当数の夢を記録せずにいる。特にこの2ヶ月ほどの間は、ほぼ完全に記録をつけることをさぼっていた。しかしそんな間にも、強い印象を残した --- 残さざるを得なかった --- 夢があった。確か、11月1日頃に見た夢だったと思う。

駅の中にいる。
他の路線に乗り換えるために、改札を抜けて、駅を出る。


乗り換え先の路線の駅へと向かって歩いていると、円形の地下広場に差しかかった。その円形の広場は、まさしく都会の雑踏とでも言うべき雰囲気で、多くの人々が、ざわざわと行き交っていた。


その雑踏の中へと歩みを進めると、ざわざわ、ざわざわ、といった人々の行き交う音が、徐々に大きくなっていった。そしてその音はいつしか、まるで僕の中に流れ込んでくるかのような感覚を伴うようにまでなっていった。


僕はその感覚に身を委ねた。するといつしか、僕は、広場になっていた。僕自身が、その円形の広場だった。僕の中に、多くの人が流れ込み、僕の中を、多くの人が行き交っていった。


時間が経つとともに、徐々にその感覚は緩やかなものになっていった。そして気が付くと、僕は一人で広場に立っていた。あれだけいた大勢の人々は姿を消してしまっていて、あたりを静けさが支配していた。


僕は乗り換え先の改札に向かって、再び歩き始めた。


この夢を見た後しばらくの間、僕は不思議な感覚を感じるようになっていた。それは、人と接している時に、「今、あなたは私の中を通り過ぎた。」とでも言いたくなるような、奇妙な感覚だった。この感覚は、夢を見てから日にちが経つにつれて徐々に薄れていって、今では、わずかにその残滓のようなものを感じとるのみとなっている。


これはレヴィ・ブリュールが定義するところの、「神秘的融即」と呼ばれる心象なのではないだろうか、と僕は思った。レヴィ・ブリュールは、未開部族(嫌な表現だ)において、しばしば個人の感情価が外界の事象と同一視されることを捉えて、その未分化な心理状態を「神秘的融即」と呼んだ(僕がこの用語を知ったのは、ユングの著作からだと言うことを、言い添えておく)。


まったく我ながら危ういな、と思う。
しかしそれと同時に、人間が、このような心理機能を潜在的に有しているという事実に、驚きを禁じ得ない。


例えば、「風」という自然現象を考えてみる。太古の人間であれば、それを「精霊」の仕業である、だとか、「神」のなせる御業である、などとしただろう。それに対して、現代に生きる僕達の大半は、そのような見方には与しない。しかしいずれにせよ、「精霊」の仕業だと見なしたとしても、科学で位置づけることが可能な自然現象であると見なしたとしても、「風」という事象が存ずるという事実には、何も変わりが無いのだ。それと同様に、僕達が、遠く離れ、もはや囚われることは無いと見なしている太古的な心象もまた、決して消えてなくなった訳では無い。


あなたが恋をした時。
あなたはその対象に、いったい何を投げかけているのだろう?


あなたが怒りを覚えた時。
あなたはその対象に、いったい何を見出しているのだろう?


あなたは、例えばテレビの向こうの人々に --- 例えばタレントに、国家の指導者に、外国の民衆に --- いったい何を感じているのだろう?


あなたはこのブログを読んで、僕に、いったい何を思ったのだろう?


僕は『「自我と無意識の関係」を読む』と称して、ユングの「自我と無意識の関係」という著作の内容を読んで、自分なりに解釈したものを記してきた(現時点ではまだわずかなものではあるけれど)。その著作の中でユングは、「神に似ていること」という心理状態について語っている。ユングは、外部に拡がる社会の、地位や肩書といった心理的因子にせよ、内部に拡がる無意識の領域の、イメージやファンタジーといった心理的因子にせよ、決して個人に属することの無い心理的因子を自らのものと錯覚することこそが、「神に似ていること」 --- つまり、人間の分際を越えてしまう心的インフレーションへと人を向かわせるのだ、と述べている。


もしも、僕やあなたが人間としての分際を越えず、同時に何にも依らず生きていくことを望むのであれば、真に自分に属するもの、そしてそうでないものとの分別を明らかにしなければならない。そしてそれらの心理的な因子は、他者との関係に、分かち難く投げかけられ続けている。僕達は、他者との関係から切り離されて存ずるということはあり得ない、他者との関係から切り離された上での個人の確立はあり得ないのだ、という事実を、受容しなければならない。

追記 2005/11/25

他者に対して、一体何を投げかけているのか。また、他者に投げかけているものを、いかにして回収するのか。社会に見出される問題と、それを見出した個人との間に、どのような関連があるのか。僕が考えたいことは、そういったこと --- つまり、自己の中の他者、自己を構成する他者、他者に紐付けられて見出される自己、関係そのものである自己 --- なんじゃないか、って感じている(あー、なんだかこっ恥ずかしいことを書いている)。上で書いた内容はあまりにも稚拙ではあるけれど、僕が感覚として体験したもの、そして今現在の僕が考えたことに関する、メモ程度にはなっているんじゃないかな、って思う。(下に書いた自己嫌悪は消えないけれど。)