すっきりしない

以前、河合隼雄の発言を取り上げて、批判をおこなったことがあった。


河合隼雄の「靖国参拝」に関する発言について - 諸悪莫作
t-hirosakaさんへ - 諸悪莫作(コメント欄)


正直に話せば、あのエントリを書いた後、僕は自分の中になんだかもやもやと、すっきりしないものを感じていた。自分の捉え方には、なにかが欠落しているのではないか、何かを取りこぼしてしまっているのではないか、という思いが抜けなかったのだ。そんな中、今日、川瀬貴也さんの「すっきりしないこと」が大事: 川瀬のみやこ物語 episode2というエントリを読んで、僕はその「欠落しているもの」の正体が、おぼろげながらも見えてきた気がしたのだった。


川瀬さんのこのエントリを僕なりに簡単に要約してしまえば、「帰属処理」と「切断操作」に終止してしまっている人達に対して、その「すっきりしたい」という気持ちは、ただの自己正当化の欺瞞に過ぎない、歴史の多面的な側面を捉えるには、「すっきりしないこと」も大事にしなければならない、という指摘をされているのだと思う*1。川瀬さんはわかりやすい言説に依拠してしまうことに強くNoと言っているわけで、それは河合隼雄の言うような曖昧力とは(一見似ているけれど)全く異なっているし、その点は僕も共感をおぼえる。


その上で、僕は自分に欠落していたと感じている視点について考えていきたいと思う。まず、僕が河合隼雄の発言に対して感じた問題を整理すると、

  • 白黒はっきりつける、といった態度に対しての、「過剰な反応」「単純過ぎる」という意見は、一見まともに見える。しかし、それが実際に抑圧下にある当事者の叫びであった場合、そのような意見こそが暴力的なのではないか。
  • 誰かが回答を出しているという状況で、他者が回答を留保するということは、結果として、その回答を認める、ということになるのではないか。


といった感じになるだろう。これらをもう一歩敷衍するならば、「回答を留保する」ということは、それ自体もまた、一つの回答となっている、とも言える。さらに付け加えると、「回答を留保する」といったメタな態度は、「第三者としての自分」という立ち位置を前提としなければ、あり得ないのかもしれない。それは、川瀬さんのエントリの、以下の箇所を読んで感じたことだ。

もし君が二ヶ国間を鳥瞰するような大きいことを言いたいなら、自分の出身国の立場を一旦離れてものを考えなくちゃいけない。


この第三者としての視点というものは、二国間の問題に限らず様々なものごとにおいて、非常に(決定的に)重要なのだ、と思う。しかしまた同時に、それすらもその第三者性ゆえに、その当人にとっても、他者にとっても、暴力的に機能し得るのではないだろうか。


それでは、どうあれば良いのか?
それが、僕に欠けていた視点の一端なのだと思う。現実から遊離することなく、また同時に、暴力的とならざるを得ないという軛から抜け出た上で、言葉を語るということは可能なのだろうか(また逆に、もしそれが不可能であるのであれば、ではどうあれば良いのか)。


これは簡単に答えがでるものではなく、まさに「すっきりしない」。ただ、ものごとはすべからく「簡単に答えなんて出ない」というのはその通りだとして、その上で為すべきことは、はっきりしているのではないだろうか。それは、「絶え間ない留保」などではなく、「絶え間ない表明」と「絶え間ない捉え直し」なのだ、と僕は思う。

*1:「帰属処理」と「切断操作」、なんとも便利な言葉だなぁ。。安易に使ってしまった。