有時

今日、僕はまた一つ歳を重ねた。
僕は年代的には「若者」に属する年齢ではあるけれど、最近、まるで老人であるかのように過去を回想することが増えてきた。そして、次のようなユングの晩年の言葉に深い感慨を抱いてしまうのだ。

すべてを知った老人の元型は、永遠に真実である。このような型は、どのような知能の程度においても現われ、それが年老いた百姓であろうと、老子のような偉大な哲学者であろうと、特徴は常に同じである。それは、老年と極限である。しかし、そこには私を満たすあまりにも多くのものがある。すなわち、植物、動物、雲、昼と夜、そして、人間の永遠性。自分自身に対して不確かさを感ずれば感ずるほど、これらすべてのものに対する親密感が私の中に育って来た。実際、私を外界から離別していた疎外性が、私の内界へと転移され、私自身に対する思いがけない無知を、明らかにされたかのように思えるのである。


ユング自伝 2―思い出・夢・思想 (P219)


もちろん、僕はユングの語るような境地には到っていないし、今後到るとは限らないし、そもそも、そのような境地が正しいものであるのかも、素晴らしいものであるのかも、僕にはわからない*1。しかし、ただただ内面の要請において、「過去」に取り残していったもの、こぼれ落としていったもの --- それらを回収する責任を、僕は今、感じているのだ。

*1:このような物言いに対して、むしろユングの限界のようなものを感じる方もいるだろうし。