「流れから水を得んとするものは、少しは身をかがめねばならない。」

ユングについて、半可通な状態であることから脱却したい --- 新年早々から、そのような想いが強く湧いてきた。
それは、林道義氏の以下のような文章を読んだからだ。

方法論的思考と読解力の欠如 (「牧波」への反論 )
http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/femi36-1.html


僕はこの文章を読んでいて、やりきれない想いを抱いてしまった。
なぜ、ユングからこのような見解が導けてしまうのだろうか。なぜ、このような不誠実な見解が、ユングという土壌から産まれてしまったのだろうか。なぜ、 ---。


僕がユングの著述を読んでいて常に強く感じるのは、 「生とはまさしく例外的なものである」ということだ。しかし、林道義氏は、それとは逆の認識を抱いているようだ。

私が言っている「切れ目」とは、視覚的な「切れ目」ではない。意味的・質的な「切れ目」である。すなわち、上野・大沢氏らが「中間があるから連続している」と言っているのに対して、その「中間」とは両側の男女とは質的に異なる「例外的な少数者」であり、したがってその存在があるからと言って「続いている」とは言えない、と主張しているのである。この図の細くなっている真ん中は「例外的な少数者」を示している。「中間にあるものが質的に例外的なものならば、そこは連続しているとは言えない、切れている」と私は言っている。つまり「例外的な少数者」が「切れ目」を意味しているのである。そういう意味だということを私はよくよく説明しているので、この者が本当に私の著書をきちんと読んでいるなら、すでに理解しているはずである。

社会的・文化的性差は生得的な性差を基に形成される。後者を基にし、それにそって前者を洗練させていくことが大切である。したがって「ジェンダー」と言われているものの中にも貴重な文化的伝統があり、一概に否定するのではなく、取捨選択した上で、文化として大切にしていかなければならない。とくに「男性文化」「女性文化」への分化は最も発展した文化の型を示している。


ここで林道義氏は、人間の精神の分化の結果は一様なものであり、そこから漏れる異質な人々は「例外的な少数者」である、と主張している。(少なくとも、僕にはそのようにしか読めない。)これは、ユングの諸概念に対する僕の理解とは、真逆を向いている。


なぜ、このような違いが生じているのか。
ユングの概念において、最も重要とも言える鍵概念として「個性化」というものがある。この「個性化」というものをどのように捉えるのかということが、この決定的な違いを生み出しているように僕には思える。(もちろん、その違いを生み出している根本にある、価値観こそが本当は問われなければならないのだろう、とは思うけれど。)


それではこの個性化という概念について、ユング自身の定義を見てみようと思う。

個性化という概念は私の心理学において小さからぬ役割を果たしている。個性化とは一般的には個的存在が形成され特殊化していく過程であり、特殊には心理学上の個人が発達して一般的なものや集合的心理とは異なった存在になることである。それゆえ個性化は個性的人格の発達を目的とする分化過程である。個性化が必要なことは自明である、というのは集合的基準に過度に・あるいはそれのみに・合わせて規格化することによって個性化が妨げられると、個性的な生命活動が損なわれてしまうからである。ただし個性はまず身体的生理的に与えられ、それに応じて心理的にも表れるものである。それゆえ個性が本質的に妨げられると人為的な奇形が生じる。
(中略)
個性化はつねに多少なりとも集合的規範と対立する、というのは個性化とは一般的なものから分離し分化することであり、特殊性を形成することであるといっても特殊なものを探し求めるということではなく、むしろその特殊なものは素質の中にすでにア・プリオリに根ざしているのである。
(中略)
人間が集合的な規範に強く縛られるようになるにつれて、彼の個性の不道徳性が増大するのである。個性化は原初的な同一性状態からの意識の発達と歩みをともにする。したがって個性化は意識の領域や意識的な心的生活の領域が広がることを意味する。


タイプ論 , P472-473 (文中、傍点にて強調されていた箇所は文字色を変更した。)


以上は、「タイプ論」の「定義」の項より引用した。


おそらく、「個性はまず身体的生理的に与え」られるという箇所、また、「特殊なものは素質の中にすでにア・プリオリに根ざしているのである」といったような箇所を林道義氏なりに解釈した結果が、「社会的・文化的性差は生得的な性差を基に形成される」といった言葉に代表される、彼の見解へとつながっているのだろう。しかしここで重要な点は、ユングはあくまでも「個性」について語っているのであり「性差」について語っているのでは無い、ということ、また、集合的規範からの解放という側面を強調している*1、ということである。林道義氏の見解は、分化の結果は一様なものとなる、と受け取られても仕方がないものであるが、ユング自身は集合的規範からの解放という側面を強調している点からもわかるように、ユングの著述を通じて一貫して示されているものは林道義氏の見解とは逆に「生の唯一性」とでも呼ぶべきものである。それは、「タイプ論」の「個人」という概念の定義にも表れている。

個人とは個的存在のことであり、心理学上の個人の特徴をなすのはその独自の・ある意味では一回限りの・心理である。

タイプ論 , P474


ユングの「むしろその特殊なものは素質の中にすでにア・プリオリに根ざしている」という言葉は、このような個人の、生の唯一性にかかっている。決して、「性差」によって個人が規定されるとは述べられていない。少なくともここから、「社会的・文化的性差は生得的な性差を基に形成される」という見解を導くことは、あまりにも短絡的だと言わざるを得ないだろう。また、「「男性文化」「女性文化」への分化は最も発展した文化の型を示している」という見解に関して言えば、僕自身の理解が及ばないためにここでは深く触れないが、ユングの描く「男性性」と「女性性」の統合といった概念は、そのような単純なものではない、という印象がある。(一番最初に書いたように、ここに僕の半可通ぶりがあらわれている。あまりにも杜撰であると言われても仕方がないが。。)


以上、簡単にではあるけれど、これらのことから、林道義氏の見解はユングから導いたというよりも、彼自身の価値観に基づいて導かれている、ということはご理解いただけるだろうと思う。さて、蛇足ながらここでタネを明かすと、上で引用した「タイプ論」は、林道義氏による翻訳であったりする。

タイプ論

タイプ論


林道義氏のこの翻訳に、僕は大いに得るところがあった。それだけに、自身の主張を補強するために都合の良い箇所のみ強調するような姿勢は、本当に残念だと思う。


それにしても。
日本でユンギアンと呼ばれている人々の多くには、ユングが持っていたような人間存在への深い信頼や、「人間はどこから来て、どこへ行こうとしているのか」といったような強い緊張感を伴う問題意識が、決定的に欠けているように感じる。それが、彼らの言説を卑小なものにし、顧みるに値しないものにしてしまっている、と僕には思える。

 人間にとって決定的な問いは、彼が何か無限のものと関係しているかどうかということである。これは人間の生涯に対する試金石である。真に問題とすることが無限性にあることを知ったときのみ、われわれは不毛なことに興味を固着させてしまうことを避け、真に重要でないいろいろな目標にとらわれることを避けることができる。かくて、われわれが、自分個人の所有物とみなすもの、すなわち、才能や美点を認知することを世界が認めることを要求する。人が偽りの所有物に強調点をおいたり、本質的なものに対する感受性を欠いたりすればするほど、その人生は満足のより少ないものとなる。その人は限られた目的をもつ故に、自分が限られていると感じ、その結果、他人をしっとし、羨望することになる。この世の生活において、われわれがすでに無限のものと結びつきがあることを感じ、理解するならば、欲望や態度が変化する。結局のところ、われわれが本質的なものを具体化するときのみ、価値を認め、本質的なものを具体化しないときは、生命が浪費される。他人に対する関係においてもまた、決定的な問題は、無限性の要素がその関係の中に示されているかどうかという点にある。


ユング自伝 2―思い出・夢・思想 , P171


ユングのこのような物言いを好まない人も --- それどころか気に喰わない人も --- 多いだろう。しかし僕は、それでもここからはじめたいのだ、と強く思う。そしてだからこそ、林道義氏のような言説に対して、やりきれない想いを抱いてしまうのだ。


(2006/1/9午後に、若干修正・補強をしました。文意には影響ありません。)

*1:より正確には、集合的規範の認識の深化、それに伴う集合的規範の持つ暗示力からの解放