風刺画の欺瞞

あと1ヶ月ほどで、イラク戦争開始から3年が経とうとしている。
当時、アフガンにしろイラクにしろ、その「戦争」と呼ばれる事象の、あまりに非対称な状況が話題に登ったことを思い出す。それから3年が経とうとした今、しかし、その非対称性は改善されるどころか、まるで噴火へと至る直前の火山が、地殻の奥底で活発な活動を示すかのように、その矛盾をより一層顕在化させつつあるように思える。そしてそのような状況は、たとえば、昨今話題になっている「ムハンマドの風刺画問題」にも見出すことが出来る。その出来事についての多くの人々の反応について言えば、まるで対岸の火事でも見るかのような、そんな風情だと言えるだろう。それに対して、僕はこう思う。「対岸の火事」と見なすその態度こそ、この非対称性の証ではないのだろうか、と。


この風刺画の問題は、言葉狩りの問題に似ている(と言うより、構造としては同じだろう。そしてその意味においても、これは決してヨーロッパとイスラム世界との間だけの問題では無い)。つまり問われるべきは、自身の尊厳や存在が踏みにじられているという抗議に対して、いかに誠実に応答するのか、ということであるべきにもかかわらず、その契機となった表現の表象についての瑣末な議論であったり、「表現の自由」をまもる、といった議論や、「表現の自由と信仰の問題」といった議論に置き換えられ、そして、その不公正については不問となり、温存されてしまう、という構図である。そのような場合、えてして「良識ある」とされる反応にしても、せいぜいその政治体制や経過についての精緻な分析をもってして、その問題を捉えたかのように振る舞う、そんなものばかりだ。しかしそのような場合、その不公正そのものが問題とされることは少ない。そのような「良識ある」分析がなされる理由について指摘するならば、その分析をおこなってみせる当人にとって、それらの出来事が真に自身の問題だとは捉えられていないからだ、と言わざるを得ない。


さて、この不公正と言う問題が、果たして「表現の自由」というものに勝る問題であるのか、ということは当然出てくる疑義だろう。「表現の自由」というものが権利として獲得されるまでには、多大な苦難と年月とが費されたという事実の重みがある。そして、その獲得された権利というものが、時勢によっては容易に覆され得る脆弱なものである、という事実についても考えるならば、「表現の自由」という権利を侵されることが、「重篤な事態である」と見なす認識を産み出すことは、当然の帰結だともいえる。そこには、我々が自明なものと見なしている権利が、その実、とても脆弱なものに過ぎないのだ、という現実がある。しかしまた、その表現というものにおいて、その当事者の立ち位置は必ずしも対称ではない、という現実も同時に存在する。そしてその非対称性は、その表現の暴力性においても同様である。そして、その非対称性に目を向け、自身の足が何を踏み付けにしているか、ということへの自問がなければ、称揚されている「表現の自由」それ自体が、簡単に覆され得る危うさを育んでしまうだろう。なぜなら、そこにはその非対称な暴力性への無自覚があり、それは、そのことによって容易に自身へも転嫁するからである。つまり、「表現の自由」への掣肘と、表現自体が孕む暴力性とは同質なものになり得る。そうであるならば、「表現の自由」をまもるということには、「表現の自由」への掣肘に対する抵抗だけではなく、その掣肘と同様の暴力性をそれ自体が孕んでいるという事実の自覚と、その結果への誠実な応答とが伴わなければならない、と言えるだろう(もちろん、こんなことは当り前の話である、という気がするけれど)。以上から、不公正であるということは「表現の自由」というものを脆弱にする、ということが先の疑義への僕の答えとなる。


さて、ここまで書いた中で気付いただろうと思うけれど、僕は、ヨーロッパのメディアの反応に対して批判的である。しかし冒頭に書いたように、僕としては、ヨーロッパのメディアの対応のみを問題としたいというわけではない。たとえば、ヨーロッパにおけるムスリムへの蔑視を考えた時、移民の問題というものも考慮に入れざるを得ない。そして、その移民の人々がなぜ故国を離れたのかについて考えるならば、その主要な原因として、彼らの故国の政治体制や社会が、その内に重大な問題を抱えている、という事実について触れざるを得ないだろう。現に、今回の騒動が暴動にまで発展しているひとつの要因として、それらの体制や一部の党派が、自身の浮揚やガス抜きのために煽動をおこなっているということは、否定のしようがない事実である。そしてそれは確かに、「彼らの問題である」と言うこともできるだろう。しかし同時に、それらの政治体制が温存されている大きな要因として、「国際社会」自体の欺瞞が存在するのだ、ということも指摘しておかなければならない。つまり、いわゆる先進諸国の人々における周縁化された世界への無関心さと、周縁化されているということによって引き出されるある種の侮蔑と、それに助長されたいわゆる先進諸国の、それらの地域への恣意的な関与とである。そして僕には、今回の騒動はその欺瞞の縮図であるように思える。


僕たちが「暴力的な抗議がおこなわれている」と言った時、実際には僕たち自身の暴力性もまた、無自覚のうちにそこに見出しているのではないだろうか。「彼らの問題」と見なした時に生じる断絶、そして自身の暴力性の周縁化と投影とが、そこにはある。だから僕は、「彼らの問題である」とは言わない。今、ヨーロッパとイスラム世界との間で、もしくはそれらの地域の内部においてなされている葛藤を、決して「彼らの問題である」とは言わない。そして、「彼らの問題である」とする見解に対しては、「それは違う」と主張したい。


さて、僕がなぜこんな稚拙な文章を書く気になったか、についても触れておきたい。それは、id:fenestraeさんの下記の文章を読み、そして、それに対して大きな違和感を抱いたからだ。


ムハンマドの風刺画(1)−−フランスのメディアはなぜ火中の栗を拾うのか


僕は、たとえば、id:fenestraeさんの「中東紛争の転移による対立」「ショックにおいてはムハンマドの風刺画に遜色ないと私には思われる」といった言葉に、強い違和感を禁じ得なかった。なぜ、当地の差別の問題が「中東紛争の転移による対立」という言葉にすり変わるのか(そもそも、歴史的経緯からすれば逆じゃないのか)、なぜ、自国を揶揄する程度の歌詞が、「ショックにおいてはムハンマドの風刺画に遜色ない」などと言えるのか。僕は、そのことを理解できずにいるのだ。id:fenestraeさんのエントリは、今回に限らず、フランスの現状について、日本にいればなかなか知ることのできない知見を与えてくれる。僕もいつも勉強させてもらっている。それだけに、僕にとってはこの違和感は、何か重要なもののように思えてしまうのだ。