「被抑圧側の問題」について

前回、風刺画に関するエントリを書いて以来、均質化と多様性、というものの問題について考えていた。均質化の暴力や侮蔑的な扱いに対して、被抑圧側にある人々が異義申し立てをおこなう。しかし、そのような時にしばしば論じられる、「被抑圧とされている側も、その内実には抑圧構造を抱えている」「被抑圧とされている側の主張もまた、原理主義的・排外主義的なものに他ならない」といった言説を、そしてそれが指し示している状況を、どのように捉えれば良いのだろうか、といったことを考えていた。そのような主張は、件の風刺画の問題だけでなく、いわゆる反グローバリズムの運動に対しても良く向けられる。そのような主張のわかりやすい例を引いてみれば、以下のようなものになるだろう。

精白しない「玄麦パン」を食べ、都市的・近代的な加工食品を拒否し、自然のうちで大地と共感しようという運動が、イタリアよりもうすこし北の国で一世を風靡した。
この「ドイツの伝統的食文化を守ろう」運動がその十数年後に「ユダヤ的都市文化からゲルマン的自然へ」を呼号するヒットラー・ユーゲントの自然回帰運動に流れ込んでしまったことは、あまり語られない。
(中略)
マクドナルドのハンバーガーは間違いなくアメリカン・グローバリズムの食文化的な戦略にコミットしている(だから、アラブ・イスラム世界ではマクドナルドがテロの対象になったりする)、一方、マクドナルド化を批判する伝統的食文化愛好は地域主義、排外主義の戦略にそれと知らぬうちにコミットしている。


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この文章に従って単純に考えてしまうと、たとえば次のようなニュースもまた、地域主義的な政治性を教育の場に持ち込むような、そのようなものとして捉えられてしまうかもしれない。(実際、はてなブックマークなどでの反応を見ると、そのような批判も存在している。)

ボリビア外務大臣が「コカの葉(コカインの原料)は非常に栄養豊富であるため、学校朝食のメニューに加えるべきだ」と主張しているそうだ。
「コカの葉には牛乳より多くのカルシウムが含まれている。学校朝食に加えるべきだ」とのダビッド・チョケウアンカ外務大臣の主張が、金曜日のラ・ラソン紙に掲載された。
ボリビア史上初の先住民出身の大統領、エボ・モラレス氏も法的にコカの栽培が認められることを望んでいる。コカの葉はコカインの原料として使用されるが、アンデス文化では噛んで楽しむ他、お茶に使用して親しまれている。


ボリビアの大臣、「子供達にコカを」 | Excite エキサイト : ニュース


これが果してそのようなものであるのかを論じる前に、僕はひとつの、僕たちにとって最も身近であるべき事例を持ち出してみたい。
1945年、朝鮮半島での日本の植民地支配が終焉を迎えた時、創氏改名日本語教育などの、日本による同化政策もまた、少なくとも現地においては終わりを告げた*1。その後、朝鮮半島に住む人々は、自身の本来の姓名を名乗り、自分たちの言葉で語り、自分たちの言葉で学ぶという選択をおこなった。
さて、その事実を「排外的なナショナリズム」だと強弁することは、果たして可能だろうか。もしくは、そのような状態の希求を「排外的なナショナリズム」として排斥することは可能だろうか。
もちろんそれらはナショナリズムではある。しかしそのことを「排外的なナショナリズムである」として否定するような論理は、常識的に考えればあり得ないだろう。つまりある種のナショナリズムの発露は、現実にある抑圧へのカウンターであり、より排他的な状況がその前景にあるのだと言えるのだ。
人々がどのような生を望むのか、どのような社会を望むのか、その選択は原則的に肯定されるべきだ。そして、その「望む生」が阻害されるような状況がある時、それに対して、その「望む生」に依拠して主張することを、「原理主義的」「排他的」「地域主義的」といった言葉だけで捉えることを、僕は首肯しない。それらの主張の背景にある全体的な構造や経緯をまず見るべきだし、そこにある非対称性に鈍感であってはならないはずだ。


先にあげたボリビアの話に戻ろう。果してあの記事に書かれていたことは、「地域主義的な政治性に基づく教育政策」「排他的な愛国教育」として批判されるべきものなのだろうか。一見すると、そのようにも思える。しかしこれは、下記のような状況・経緯と、切り離して考えるべきではない。

コカは、ペルーやボリビアアンデス地方を原産地とする植物で、アンデスにおいては、2000年以上も前から利用されていたと考えられている。インカ時代には、「インカの聖なる植物」として、儀礼をはじめ、社会、経済などあらゆる面で重要な役割を果たしていた。こうした伝統は現在でも受け継がれており、アンデス高地の農耕民の間では、家畜の繁殖儀礼や農作物の播種・収穫時の儀礼などさまざまな儀礼において、「神あるいは精霊の食べ物」として、欠かすことのできない最も重要なものとして扱われている。また、コカの葉を使って未来を占ったりする「コカの葉占い」なども行なわれている。
一般にアンデスでのコカ利用にはお、数枚のコカの葉を、頬と歯茎の間に入れて唾液で湿らせ、葉に含まれている成分を吸収するという方法が用いられている。こうしてコカの葉を「噛んで」いると空腹も疲れも消え、活力が戻ってくるようになるということから、農作業や長旅などの際にも利用されている。このため、アンデスの人々はコカの葉をいつでも取り出して噛めるようにと、コカ袋や包み布にコカの葉を入れて携帯しているのである。なお、こうしたコカの効用に目をつけたスペイン人たちは、先住民の人々にコカの葉を与えながらポトシの銀山での過酷な労働に従事させ、富を得ていた。現在では、麻薬であるコカインの原料になるということから、全世界的にその栽培の撲滅が提唱されているが、先住民の文化にとっては、欠かすことのできない重要で有用な植物である。


http://www.fenaboja.com/bolivia/bc/cultura_andes.htm

1998年、米国が資金援助したコカ根絶プログラム「尊厳のための行動計画(Plan Dignidad)」の実施と共に、政府の抑圧は激しくなった。この計画によりボリビア軍は、主たる収入源を死守しようとするコカ栽培農家と直接衝突することになった。米国による訓練を受け、武装した兵士たちが、計画に抗議する人々に向けて発砲したことで、人権侵害は緊迫の度を増した。
コカに代わり、パイナップル、パッション・フルーツ、ワカバキャベツヤシ(アサイヤシ)という南国の輸出作物を育てる努力もなされたが、ほとんどが悲惨な結果に終わった。何年も代替作物を育てる努力を重ねるうちに、カンペシーノ[訳注:先住民の農民]は、より疑いの目を向けるようになってきた。チャパレ地方の農民、カルロス・ホアンカはこう話す。「専門家は、アルゼンチンの人たちがプランテーン(料理用バナナ)を好きになってくれればすぐにもうかるようになると言っていた。ところが、2年過ぎても我々は飢えたままだ。自分たちで作物を輸出しようともしたが、今ではコミュニティーが払えきれないほどの借金を抱えることになってしまった。どうやって子どもたちを食べさせていったらいいのかも分からない」
(中略)
ボリビアエクアドルのような国にとって鍵となる課題は、これらの国々が生き馬の目を抜く世界経済の中で競争していけるのかという点である。批評家たちは、外国資本に門戸を開放するのではなく、まず国の開発政策の強化を最優先すべきだと指摘する。多くのボリビア人やエクアドル人は、自由貿易を望んではおらず、むしろ真の民主的合意から作り出される全く別の方向へ歩もうとしている。


http://www.ni-japan.com/topic374.htm

470年。とても長い時間、待ってきた。ピサロインカ帝国を征服して以来、虐殺とジェノサイド、奴隷化、革命と反革命、そして驚くべき188回にのぼるクーデター----その一つにおいてアメリカ合州国ナチスのクラウス・バルビーと協力し、世界史上おそらくは唯一であろう麻薬商人による政府の擁立を助けた----を通して、ボリビアには先住民の国家君主は一人もあらわれなかった。
今日までは。2006年1月22日、エボ・モラレスボリビア大統領に就任することになっている。選挙で、54%というかつてない大量の票を得て(ボリビアの人口のうち、55%から60%が先住民である)。
モラレスは、これまでと同じような大統領としてではなく、大規模でよく組織化され戦闘的な先住民運動のもっとも著名な指導者として大統領に就任する。この運動に参加している人々は、ようやく、自分たちに陽のあたるときが来たのだとはっきり考えている。彼らは、少なくとも今のところ、白人の経済エリートたちの言い訳や、既存の契約は尊重すべきだという多国籍企業の主張や、アメリカ合州国の苦情を受け入れようとはしていない。


エボ・モラレス


このような経緯を見たとき、冒頭のコカ教育の話も、単純に排他的な愛国教育とは見なせないものだとわかるだろう。そして僕は、件の風刺画の問題も、さらに言えば、国内における在日の人々への抑圧構造の問題も、野宿者排除の問題も、このような文脈のもとに捉え直す必要があるのだ、と考える。
風刺画の問題で言えば、あのイスラム世界の怒りは、ヨーロッパにおける彼らの位置づけはもとより、アフガニスタンパレスチナチェチェンイラク、そしてより象徴的には、グアンタナモアブグレイブといったものと、切り離しては存在しない。
もちろん、たとえばイスラム世界の抗議の背後に、抑圧構造や排外主義があるということも事実だろう。しかし、この怒りを産み出している構造それ自体が、彼らの中にある抑圧構造を延命し、排外主義を助長している、という事実を僕はより重大なものとして、何より自身の関わる、自分自身が当事者である問題として、捉えたいと考えている。


最後に、このエントリでは書けなかった重要な観点についても触れておきたい。それは、異義申し立ての「暴力」というものを、どのように捉えるのか、ということだ。このことについては思いつきだけで書くわけにはいかないので、今回は詳しくは書かない。ただ、誤解を恐れずに言えば、僕は異義申し立ての際の「暴力」を必ずしも否定しない。僕は「その時点での多数の合意」を逸脱するような行為を否定的なものだとは思わないし、そのような狭いものとして人間の社会を捉えようとも思わない。

*1:創氏改名に関して「法的には強制ではなかった」という主張が存在する。しかし法的な強制がなかったとしても「事実上の強制」は確実に存在していた。cf. http://www.ne.jp/asahi/m-kyouiku/net/seminarmizuno.htm