人間の本性(2)

体調が相変わらず優れないのと忙しいのとで、いまだに中巻の半ば辺りをうろちょろしている。


ところで、ネットで「人間の本性を考える」の書評などを読んでいると、ひとつの事実に気が付く。ピンカーは認知科学の立場から生得説を支持し、構築主義脱構築の概念を強く批判している。ところが、少なくとも日本語の範囲で調べた限りでは、それらの立場の人々からの逆批判や反論といったものを含む書評は見当たらない。
あるのは、認知科学や生物学の素養を持つ人々による称賛や、物足りないという批判、「ピンカーほどの科学者が、こんな当り前のことを主張するためにこれほどの労力を費すとは」といったたぐいの嘆き、そういったものがほとんどであった。
この事実は、次のことを示しているのかもしれない。日本における構築主義の立場にある人びとにとって、認知科学の立場から痛烈な批判があるという事実は折込済みである、もしくは、そのような批判があること自体を知らない、そのどちらかなのだろう。
いずれにしても、ピンカーの主張を肯定するにせよ、否定するにせよ、もしくは、僕のようにいろいろとひっかかりをおぼえるにせよ、人間について語る以上、現代の認知科学の潮流がどのような方向に向かっているのかは、知らないよりは知っておいた方が良いのではないだろうか。(ましてやその批判が、自分達の基盤の再考を促すものであるならば、なおさらだろう。)


ピンカーはたとえば次のように、現代の認知科学の成果を武器に、構築主義脱構築の概念を批判していく。

ジャック・デリダのような権威者の文章には、「言語から逃れるのは不可能である」「テクストは自己言及的である」「言語は力だ」「テクストの外には何も存在しない」といったアフォリズムがちりばめられている。同様に、J・ヒリス・ミラーは「言語は、人間の手のうちにある機器や道具のように従順な思考の手段ではない。むしろ言語が人間と人間の"世界"を考えるのだ……言語がそうすることを人間が許すなら」と書いた。そして、「もっとも極端な言明」という賞はまちがいなく、「人間は言語以前には存在しない。種としても個人としても」と宣言したロラン・バルトのものだ。
 こうした考えのおおもとは言語学がその出所だと言われているが、ほとんどの言語学者は、脱構築主義者は前後の見境をなくしていると考えている。
ISBN:4140910119, P135

知覚やカテゴリーは、私たちが世界と接触を保つための概念をあたえる。言語は、概念と言葉を結びつけることによってそのライフラインを拡大する。子どもは家族の口から発せられる音を聞き、直観心理学と状況を把握する能力を使って話し手が何を言おうとしているかを推測している。そして心のなかで言葉と概念、文法規則を結びつける*1。犬のバウザーが椅子をひっくり返して、お姉ちゃんが「犬が椅子を倒しちゃった!」と叫ぶと、下の子は「犬」は犬のことで、「椅子」は椅子のことで、「倒す」という動詞の主語は、倒した主体だと推定する。すると下の子は、ほかの犬やほかの椅子やほかの転倒について話せるようになる*2。自己言及的なところや、牢獄のような拘束はまったくない。小説家のウォーカー・パーシーがあてこすりしたように、脱構築主義者とは、テクストは指示対象を何ももたないと主張しておきながら、妻の留守番電話に夕食はペパローニ・ピザにしてくれとメッセージを残す学者である。
ISBN:4140910119, P136-137

 認知科学者や言語学者はほぼ全員が、言語は思考の牢獄ではないと考えているのはどんな理由によるのだろうか?第一に、乳児や人間以外の霊長類など、言語をもたない生きものを綿密に調べた数多くの実験によって、物体、空間、因果、数、確率、主体的行為(人または動物による行為)、道具の機能といった基本的な思考のカテゴリーが働いていることが発見されている。
 第二に、私たちの頭のなかにたくわえられた厖大な知識はあきらかに、私たちが個々の事実を学習したときの語やセンテンスで表現されているのではない。この本の一つ前のページに何が書いてあっただろうか?あなたがかなり正確に答えられると私は思いたい。読んだとおり正確な言葉でかいてみてほしい。たぶん一つのセンテンスも、一つの句さえも言葉どおりに思いだすことはできないだろう。あなたが思いだしたのは主旨(内容や意味)であって、言葉そのものではない。人間の記憶に関する多くの実験によって、私たちが長期にわたって憶えているのは話や会話の内容であって、文言ではないということが確認されている。(中略)
 言語をしかるべき位置に置くには、第三に、私たちが言語をどのように使っているかを考えるという方法がある。(中略)言語はみな、不変の牢獄であるどころか、たえず改変されている。言語愛好者が嘆こうと、言語警察[フランス語を公用語とするカナダのケベック州で英語表示の取り締りをする当局]が強制しようと、言語が新しい考えかたを伝えたりする必要にしたがって変化するのは止められない。
 最後に言語は、もし世界や他者の意図についての暗黙の知識という巨大な基盤の上に立っているのでなければ、機能することはできない。言葉を理解するには、言外の意味を聞きとって両義的なセンテンスを適切に解釈し、断片的な言葉をつなぎあわせ、言いまちがいにひっかからずにやりすごし、思考の流れのなかにある口にされなかった部分を補わなくてはならない。シャンプーのボトルに「泡立て、すすぎ、くり返す」と書いてあっても、だれも一生シャワーを続けたりはしない。「もう一度くり返す」という意味だと推測する。また、どちらともとれる新聞の見出し --- 「Kids Make Nutritious Snacks (子どもたちが栄養のあるおやつをつくる。 子どもは栄養のあるおやつになる)」「Prostisutes Appeal to Pope (娼婦が教皇に嘆願。 教皇は娼婦が好き)」「British left Waffles on Falkland Islands (英、フォークランド諸島について言葉を濁す。 英、フォークランド諸島にワッフルを残す)」 などをちゃんと解釈できるのは、新聞に書かれていそうな種類の物事についての背景知識を苦もなく適用するからである。さらに言えば、ひとつながりの語が二つの思考を表現する両義的なセンテンスが存在すること自体、思考がひとつながりの語と同じものではないことを立証している。
ISBN:4140910119, P139-141


うーん、わかりやすい。そして、おもしろくもある。デリダすらトンデモ扱いというのは、一見、とても明快だ。全編にわたって、このような明快さが途切れることなく続いていく。しかし、この全編にわたる「明快なわかりやすさ」は、ちょっとしたテクニックを弄している証でもある(が、今回はそのことについてはこれ以上触れない)。


ちなみに、以前、id:t-hirosakaさんが論考を進めていた「惻隠の心の同心円的波及」*3、ピンカーは、それすらも生物学的に説明することができると明快に言う。

 道徳の輪の拡大を起こすものとして、善に向かう謎の動因を想定する必要はない。拡大は、利己的な進化のプロセスと複雑なシステムの法則との相互作用によって起こるのではないかと考えられる。生物学者のジョン・メイナード・スミスとエオルシュ・サトマーリ、それにジャーナリストのロバート・ライトは、進化によってしだいに大きな協力が導きだされていく仕組みを説明している。生命史のなかでは、自己複製者がチームを組んで、それぞれが特殊化して仕事を分担し、協調して行動する現象がくり返し起こっている。これは自己複製者の置かれた状況がしばしばノンゼロサムゲーム、すなわち二人のプレイヤーが採用した戦略が双方をともに利するゲームであるからだ
ISBN:4140910119, P64

 ライトは人間本性の三つの特徴が、協力者の輪を一貫して拡大させてきたと論じている。一つは世界がどのように動いているかを見抜くのに必要な認知力である。これは共有に値するノウハウと、物や情報をより大きなテリトリーに広げる能力を生む。そしてそれらが、取引で利益を得る機会を拡大する。二つめの言語は、技術の共有や、契約の取り結びや、協定の実行を可能にする。三つめは情動のレパートリー(共感、信頼、罪悪感、怒り、自己評価など)で、これは私たちを駆り立てて、新たな協力者を探し、彼らとの関係を維持し、搾取の可能性から身を守るようにさせる。(中略)地球上で人びとが相互依存の関係をもつ地域が増えるにつれて、敵意が減少する傾向にあるのは、だれかを殺してしまえばその人と取引きするわけにはいかないという単純な理由による。
ISBN:4140910119, P64-65

 拡大する輪が進化した理由(究極的要因)は実利的でシニカルとさえ思えるかもしれないが、拡大する輪の心理(至近要因)はかならずしもそうではない。共感を拡大するためのノブは、いったん設定されて、協力や交換の恩恵を享受するように進化すると、よその人たちも自分達に似ているという新たな情報によっても動かされる。(中略)
平和的共存は、人びとの心から利己的な欲求をたたきださなくては実現しないわけではない。それは一部の欲求(安全への欲求、協力の恩恵、普遍的な行動規範を考案して認める能力)を、目下の利益に対する欲求と対抗させることによって実現できる。人間の本性が固定しているからこそ(固定していても、ではなく)、道徳や社会が着実に進歩する道筋はたくさんある。
ISBN:4140910119, P65-66


これもやっぱりわかりやすい。そしてお気軽だよなぁ、とも思う。人文系の人間とは前提として依拠しているものの蓄積の仕方が異なるから、表象に表れてくる言葉はお気軽に見える、ということなのだろうか。それにしても、気が付くと引用ばかりになってしまった。疲れていると安易になって駄目だなぁ。。

*1:当然、これらの能力が人間普遍に生得的でなければ、このような事は不可能となる

*2:つまり、生得的に抽象化とカテゴリ化の能力を持っている、ということを示している

*3:http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20060319#1142742709