人間の本性 (追記あり)

ここしばらく、体調を崩してしまって、寝て過ごすことが度々あった。その、朦朧とした頭で僕はスティーブン・ピンカーの「人間の本性を考える」を読み進めていた。僕が関心をよせているユングは、人間の心理現象は合目的的であり、また、人類は生得的に人種を越えた普遍的な心理構造を持っている、としている。これらのユングの概念が、現代的な知見とどの程度関連があり、また、どのように修正が求められるのか、という興味から読み始めたのだった。


ピンカーは「人間の本性を考える」のテーマを、次のように述べている。

 人間の思考や行動のことになると、遺伝がなんらかの役割をはたしている可能性があるという話は、いまもまだ人に衝撃をあたえる力をもっている。人間の本性というものが存在すると認めることは、人種差別や性差別、戦争や強欲や大量殺戮、ニヒリズムや政治的反動、子どもや恵まれない人たちの放置などを是認することだと、多くの人が考えているのだ。そして、心が生得的な機構をもつという主張は、まちがっているかもしれない仮説としてではなく、考えるだけでも不道徳なものとして受けとめられている。
 現代の生活において、人間の本性という概念に加えられている、この道徳的、感情的、政治的な潤色が本書のテーマである。
ISBN:4140910100, P9-10


体調も優れなかったこともあり、実は、上中下巻とあるうちの、中巻の半ばまでしか読んでいない。なので、拙速なことを書くわけにはいかないし、細かい内容については疑問に感じる箇所も多々あった。ただ、このピンカーの問題提起とその内容は、現代において人間やその差別というものを考える際には避けることのできないテーマであり、それらの問題について考えるならば、読んだほうが良い内容なのではないか、と感じる。何よりも、相当に刺激的な内容であることには疑う余地がない。


たとえば、遺伝と社会的階層の相関関係については、次のように述べている。

 社会階層が遺伝子となんらかの関係があるという考えは、社会ダーウィニズムに対する恐怖心のために、現代の知識人からプルトニウムのような扱いを受けている。しかし社会階層と遺伝子にまったくなんの関係もないと想像するのはむずかしい。哲学者のロバート・ノージックがあげた例をあてはめるなら、仮に一○○万人の人がパヴァロッティの歌を聴くのに喜んで一○ドル払うのに私の歌には払いたがらないとして、それが一つには、二人のあいだに遺伝的な差異があるためだとする。そうするとパヴァロッティは私より一○○○万ドルも金持ちになり、社会が完全に公正であっても、私の遺伝子が私を締めだす経済的階層のなかで暮らすだろう。これは、もし人びとが、よりすぐれた生まれつきの才能の成果により多くのお金を払うとしたら、そうした才能の持ち主のところにたくさんの報酬がいくというむきだしの事実である。そういうことが起こりえないのは、人びとが決められたカーストにがんじがらめになっている場合か、すべての経済取引を国が管理している場合か、私たちがブランク・スレート*1であるために生まれつきの才能というものがない場合だけである。
ISBN:4140910119, P28


これは相当に危うい発言のように思える。しかしこのような主張の後に、ピンカーは次のように続ける。

 生物学的な差異と社会正義という概念は本当に両立できるのだろうか?まちがいなくできる。哲学者のジョン・ロールズは、有名な正義論のなかで、自分が生まれつき受け継ぐことになる才能や地位について何も知らない、「無知のベール」をかぶった利己的な行為主体 --- 自分が取りつくことになる機械について何も知らない幽霊 --- の交渉によってできる社会契約というものを想像してみなさいと言った。公正な社会とは、それらの肉体をもたない魂が、社会的あるいは遺伝的に不利な札を配られるかもしれないことを承知のうえで生まれてくることに同意するような社会であると彼は論じたのである。もしあなたが、これが妥当な正義の概念であることに同意し、その行為者が幅広い社会的安全保障や、(暮らし向きをよくしようという各人の動機をそぐほどではない程度に)再分配効果のある課税を主張するだろうということに同意するなら、あなたは、たとえ社会的地位の差は一○○パーセント遺伝性であると考えていても、社会補償政策の正当性を示すことができる。それらの政策は文字どおり正義の問題であって、個々人を区別することができないことの結果ではない。
ISBN:4140910119, P31-32


問題となるのは生物学的な事実ではなく、政治性や道徳観が学問的な領域に侵入し、真実を糾弾し、それをゆがめてしまうということなのだ、とピンカーは強調する。そして、一般においても多くの学究者においても、人間の自由につながると見做されている「心は白紙であり、経験によって構成されていく」といった概念(構成主義)を彼は次のように批判する。

 人間本性は粘土のように柔軟だという考えは、楽観論や意気の高揚につながると言われているが、よく考えてみればそのような評判に値しないことがわかる。もし本当にそうなら、社会は条件づけの技術を人間に適用して、避妊やエネルギーの節減や和解をし、混みあう都会を避けるように人びとの行動を形成すべきだと論じたB・F・スキナーは、偉大な人道主義者として賛美されたはずだ。
ISBN:4140910119, P66-67


つまり要約するなら、人間は白紙であるとする概念は、実際には「人間の自由」ではなく、「人間は自由に再構築できる」という誤謬へとつながる危うさも含んでいる、という批判になるだろう。ピンカーは、「人間の本性」という概念と自由とを、次のように関連付けている。

 私たちが単なる環境の所産ではない以上、犠牲はかならず生じる。人はもともと、強化されたかどうかにかかわらず、快適さ、愛、家族、評価、自主性、美、自己表現などへの欲求をもっているし、その欲求を発動する自由を妨害されると苦痛を感じる。実際、人間の本性という観念をまじえずに心理的な苦痛を定義するのはむずかしい(中略)私たちはときに、苦しみをあたえて行動をコントロールすることを選択する。たとえば不可避ではない苦しみを他者にあたえた人を罰するときがそうである。しかし、ほかの人びとの自由や幸福をなんらかのかたちで侵害することなしに行動を再形成できると偽ることはできない。人間の本性こそが、私たちが行動の操作者に自由をあけわたさない理由なのである。
ISBN:4140910119, P67-68


そして、次の一文は中巻半ばの記述ではあるけれど、ピンカーの主張の要約とも言えるだろう。

人間の本性が存在するという考えは、私たちに迫害や暴力や強欲さを永遠に負わせる反動的な教義ではない。有害な行動を減らす努力はもちろんすべきであって、それは飢えや病気や自然災害などの苦しみを減らす努力をするのと同じである。しかし私たちは、やっかいな自然界の事実を否定することによってそうした苦しみと闘うのではない。事実の一部をほかの事実と対抗させることによって闘うのだ。社会の変化を目指す努力を効果的なものにするためには、ある種の変化を可能にしている認知的、道徳的リソースを突きとめなくてはならない。そしてその努力を人道的なものにするためには、ある種の変化を望ましいものにしている、普遍的な喜びや苦しみを認識しなくてはならない。
ISBN:4140910119, P74


引用ばかりになってしまったけれど、体調が回復したら、もう少しまじめに書く、、かもしれない。


人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

人間の本性を考える  ~心は「空白の石版」か (中) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (中) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (下) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (下) (NHKブックス)

*1:人間は生まれた時には何も刻まれていない石版であり、社会によって構築されていく、とする概念