シンクロニシティ

 この論文を書くにあたって、私はいわばひとつの約束をしておきながら、長年にわたってそれを果たすだけの勇気を持たなかったということができる。問題とその提示の困難さは私にとってあまりにも大であった。すなわち、このような問題に取り組むには知的な責任感を必要とするが、それはあまりにも大であったし、結局のところ、私のうけた科学的な訓練ではあまりにも不適当であると思われた。(……)ここに読者に対して偏見のなさと好意を要請するという稀なことをしても、読者が私を僭越と思われないようにと願っている。読者は人間の経験のなかで暗くあいまいで偏見に取り囲まれている領域に踏みこむことが期待されるのみならず、このような抽象的な問題の取扱いや説明に避けることのできない知的な困難さを覚悟しなければならない。二、三ページ読むだけで誰もがわかるとおり、これはこの複雑な現象の完全な記述や説明についての議論ではなく、その多様な側面と関連性を明らかにし、哲学的に非常に重要なひとつの不明瞭な領域を切り拓くような、この問題についてひとつの切口をつける試みに過ぎないのである。(……)ほとんどの場合において、それらは無思慮な冷やかしにさらされるのを怖れて、人々が話そうとしない事柄であった。いかに多くの人がこのような経験をもち、いかに注意深くその秘密を守っているかを知り、私は驚いたのであった。かくて、私のこの問題に関する興味は、科学的にはもちろん、人間的な基盤をもつのである。


自然現象と心の構造―非因果的連関の原理, p3-4


最近、一部界隈で話題になっていた事柄に「鏡の法則」というものがある。もちろんこの鏡の法則は、取るに足らないありがちなインチキ話ではある。しかし僕は、この手の話題を見かけると、途端に居心地が悪くなって、ソワソワし始めてしまうということを告白しなければならない。と言うのも、僕がもっぱら、ユングなんてものを読んでいるような人間だからだ。


今回もちょっと嫌な予感がして、実際にgoogle様にお伺いをたててみた。すると案の定と言うべきか、この鏡の法則は、ユングシンクロニシティ仮説を重要な根拠にしているらしいし、また実際に、シンクロニシティと結びつけて考えている人も多いらしい、ということがわかった。


・ 参照
鏡の法則 シンクロニシティ - Google 検索


この手の解釈を見る度に僕は心の中で、「あぁ、なんてこった。全然違うよ!」と叫んでいる。はっきり言って、この鏡の法則に限らずユングの諸概念に関する解釈は、批判する側にしても(良くも悪くも)肯定する側にしても、あまりにも素朴なものが多すぎる。正直、うんざりしてしまう。とは言っても、素朴な解釈が多いことにはそれなりの理由があるようにも思える。


ひとつには、それらの諸概念を巡る抽象的な議論は、一般にはなじみが無いものである、ということがあるだろう。また、それらの諸概念がもたらす、ある種の心理上の感情価の水位(この表現は妥当なものとは思えない。これをうまく表現するにはどのようにすれば良いのだろうか?)が、魔術的・神秘的な解釈を施したいという誘惑に人を駆り立てるのだとも言うことができる。


さらに、それらの諸概念は科学的手法の対象とすることが困難であり、そのような意味での厳密さに欠ける*1。そのために、それらの諸概念はいまだ仮説段階に留まっていて、さらに、残念ながら荒削りと言うべきものなので、実際に様々な混乱を引き起こしてさえいる。


そのような問題を孕んでいるにせよ、いずれにしても、自身にとって馴染みが深い領域に関して俗説がはびこっていた場合、それを正したいと思うのが自然な心情と言うものだろう。だから、成功する見込みは少ないものの、このシンクロニシティという概念に関して出来得る限りの説明をおこなっていきたいと思う。


さて、シンクロニシティという概念についてのありがちな誤解を解いていくことが本エントリの目標となったわけだが、しかしその前に、「集合的無意識」という概念についても、簡単に説明をしておく必要がある。なぜなら、以下に引用するエントリに見られるように、シンクロニシティに対する誤解と、集合的無意識という概念に対する偏見は、たいがいの場合、セットとなっているからだ。

で、なぜ世界に類似の神話が存在するのかについて、研究者の間では「伝播説」「偶然説」そして「深層心理説」というのがあるそうだ。「伝播説」と「偶然説」はわかるのだけど、「深層心理説」とはなんだ?

どうやらフロイトを出発点とするらしい。

(参考 ⇒浦島伝説の起源と伝播

しかし、そんなこと本当に有り得るのだろうか?

すごく胡散臭いんだけど、真面目に取り上げられているみたい。

ちなみに、

⇒「カール・ユング Carl Jung (1875-1961), シンクロニシティ(共時性) & 集合的無意識

では、

一言で、こんなのは科学でもなんでもない、疑似科学にすぎない。

と一刀両断されている。


神話の共通性 - 国家鮟鱇


ここで語られているような集合的無意識に対する誤解は、非常にありがちなものだ*2。つまり、「深層心理」だとか「集合的無意識」だとかいったような概念を聞いたときに、まるで「大霊界」のような超越世界を措定しているのだと考えてしまう、もしくは何か魔術的・神秘主義的な世界観を連想してしまう、そのような誤解は非常に多い。しかし集合的無意識という概念は、そういった「大霊界」を措定するかのような世界把握とは根本的に異なっている*3


われわれの心理のうちに「無意識」と呼ぶべき領域があるという了解は、今では一般的なものとなっている。日常の生活の中においてもわれわれは、「つい無意識のうちに…」といった会話を頻繁に交わしている。この場合で言われている無意識とは、「自我意識の制御下もしくは認識下のもとに無い、心理活動及び心理的内容全般」といったところになるだろう。


このような意味合いでの無意識という概念に疑問を持つ方は、一度目をつぶって、「何も考えない状態」をつくりだそうと努力してみていただきたい。たいていの人にとって、それは徒労に終わるだろう。たとえ一瞬といえども、心を不活性な状態に留めることには非常な困難を覚えるはずだ。そのような単純な事実からも、われわれの心理活動の作用というものが自我の制御を越えて、常にその背景において働いているのだ、ということがわかる。事実、われわれは往々にして、自分自身の感情や欲求すらもコントロールすることが出来ないし、その意味するところも、それがなぜであるかすらも了解していないのだ。


ところで、おそらくは人間のような自我意識を持たないであろうとされている動物において、個体を越えて継承され、反復してあらわれる行動のパターンというものが存在しているということは、既知の事実だと言える。一般的にそのような行動のパターンは「本能」と呼称される。


人間においても、親の生まれとは関係無しに、子どもは生まれ育った土地の言語を習得できる、といった事実がある。たとえば、両親がブラジルの出身であったとしても、日本で生まれ育った子どもは、通常、困難を感じることもなく、ごく自然に日本語を習得することが出来る。この事実は、言語習得に関して、個体を越えた共通の構造・共通の土台が、人間存在に普遍的に備わっている、ということを示している。われわれ人間が言語を用いて相互に対話をすることが可能なのも、そのような共通の構造を持つおかげだと言える。


つまり、動物において「本能」と呼びあらわされる非個体的な、継承された行動のパターンが存在するように、人間においても、言語活動のような高度に知的な活動でさえも含む形で、継承された非個人的・普遍的な構造というものが存在する、と措定することができる。


ユングはこのことから、遠くはなれた土地の神話や伝承において類似の様式が見出されたり、時代を越えて個々人の夢の中に共通のモチーフが見出されたり、また、太古的な古代の神話と近代の政治的スローガンの間にすら類似の構造が見出されるといったようなことも、そのような共通の構造を持つためだと仮定した。そのため、集合的無意識とは、人間心理におけるそのような「非個人的な、継承された諸カテゴリー」を含んだ無意識の領域を指すための概念仮説である、と定義づけることができる*4


これらのことから、先の引用にある「深層心理説」というものは荒唐無稽であるどころか、それを敷衍することによって、伝播説なども基礎づけることができる概念である、とさえ言える。なぜなら、集団間の伝播に際しての「表象への指向の類似性」という前提を、つまり、他者の物語や伝承を理解すること、好んで受け入れることを可能とする前提を、この概念は与えてくれるからだ。


とは言え先にも述べたように、この集合的無意識という概念にも、概念上の荒さや混乱、理解の上での困難さといったものが存在しないわけではない。その概念上の混乱のひとつは、集合的無意識 --- ドイツ語では kollektives unbewusstes、英語では collective unconscious --- の日本語訳として、集合的無意識と普遍的無意識のふたつの訳語が存在し、そのどちらが妥当か、という議論があることにもあらわれている。


素直な訳語としては集合的無意識が妥当と言えるだろうが、実際の問題として、この概念は、先に述べたような心理の普遍的な側面を言い表すものとしても用いられると同時に、一般的な意味での集合、つまり社会集団などの集団心理や集団行動について言い表すためにも用いられてしまっている。


しかしこのような概念上の曖昧さも、自然界に見られるミツバチなどに代表される協調動作を想定することで解消される。つまり、それは本能にもとづく動作であるが、同時に、集合的な作用としても立ち現れている。そして、そのようなものとして集合的無意識を措定することにより、「集合とは本質的に無意識的である」という了解が生まれる。そしてだからこそ、人はその本質において集合からの分化を、個の確立を指向しているし、何より要請されもするのだ、ということがユングの諸概念において重要な比重を占めることとなる*5


うーん、集合的無意識について簡単に説明するつもりが、長々と書いてしまった。
目標に到達する遥か手前で時間と体力が尽きたので、続きは明日以降。

*1:もちろんこのような課題は、フロイトに始まるいわゆる「無意識の心理学」全般にあてはまる話である

*2:【2006/7/14 追記】むしろ、僕の誤解でした! http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20060713/1152808037 及び http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20060707/1152284749 を参照。tonmanaanglerさん、失礼しました。。

*3:そもそも、たとえば「ラカン象徴界」と言ったときに「あー、大霊界みたいなやつですね」と言うような迂闊な人間は、そうそういないだろう。ユングへの神秘主義者というレッテルは、後述する予定だが必ずしも謂れのないことではないとは言え、とても不幸なことなのだと強調しておきたい。

*4:http://d.hatena.ne.jp/t_kei/20050923/p1 及び http://d.hatena.ne.jp/t_kei/20051211/p1 も参照

*5:だから、ユング全体主義者であったとする馬鹿げた中傷は、この前段部分のみを取り上げてあげつらったものなのだと言える。