普遍論争 (2)

ある意味で、以前取り上げた「普遍論争 - 諸悪莫作」の続き。


本来ならエントリで書くべき事柄を少々忙しくなってきたせいで、はてブのコメントのみで済ましてしまった。失敗。

たとえば、科学も人の営為である、という文脈で言えば「文化」という言葉がたしかに妥当と言えます。でも、三本の直線を結ぶと三角形になる、という事実は文化ですか?そういう意味だと思いますよ。


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これは、元エントリでの id:anhedonia さんの「どこに引っかかったのだろうか?気になる。」という記述への、僕なりの推測を述べたものだった。つまり、字数の関係で言い足りなかった箇所をやや補えば、『たとえば、科学も人の営為である、という文脈で言えば「文化」という言葉がたしかに妥当だと言えます。でも、「三本の直線を結ぶと三角形になる、という事実は文化ですか?」という問いもあり得るでしょう。だから、科学的方法論と言えども人間の営為に「過ぎない」という意味合いで「文化」と呼ぶなら、それに違和感を抱く人がいても不思議だとは思いません。引っかかったというのは、そういう意味だと思いますよ。』ということになる。(もちろんこれは単なる推測で、しかも、余計なお世話に過ぎないのだけれど。)


いずれにしてもこの手の話題は、僕自身にとっても最大の関心事のひとつだと言ってもいい。これもまた、形を変えた実在論非実在論の対立と言えなくもない。「普遍論争 - 諸悪莫作」で取り上げたように、そのような対立は人類の歴史上繰り返し現れてきた。僕としては、この問題に対してどちらの立場を取るにせよ --- たとえば、「経験によって構築されたものに過ぎない」と言うにせよ、「経験を超えた本質を捉えることができる」と言うにせよ --- 即断することができるという人がいたなら、それはただ単に、その人の素朴さの証に過ぎないのではないだろうか、と感じはじめている。


今ちょうど、ユングとパウリ*1による「自然現象と心の構造―非因果的連関の原理」を読みかえしているが、その中でパウリは次のように述べている。

 純粋に経験的な考え方によれば、自然法則は、ひたすら経験という素材だけから、ある見かけの確からしさをもって導かれることになるが、これに反し、近来の多くの物理学者は、直観とか関心の方向といったことが、概念や理念の発展に重大な役割を果しており、それは通常単なる経験などをはるかにしのいで、自然法則の体系(つまり科学理論)の構築に必須のものである、ということを、更めて強調するようになっている。このような純粋経験主義的でない立場から見たとき --- そしてわれわれもまたこの立場をとるものであるが --- 一つの問題が生じる。感覚知覚と概念の間の橋渡しをするものの本性は何か、という問題である。論理学的な思想家たちが一致して達している結論は、純粋の論理では、そのような橋渡しを築くことは基本的に不可能である、ということである。この点で、人間の側の選択から独立し、かつ現象の世界とも異なる宇宙の秩序という前提を立ててみることが、最も満足すべき結果をもたらすのではないかと思われる。「自然物が観念に介入する」と言うにせよ、あるいは「形而上学的事物 --- それ自体現実であるような --- の振舞いによって」と言うにせよ、感覚知覚と観念との間の関係は、知覚者の精神と知覚によって認知されるものとの双方が、客観的と看做し得るある秩序に従っている、という事実に基づいて初めて成り立つことには変わりがない。
 この秩序が自然のなかに部分的にでも認知される度毎に、一方においては現象の世界に関わり、また一方では一般的な論理概念を使うことによって「理想化した形で」その現象の世界を超えるような言明が定式化されて行くことになる。(P151-152)


パウリのような天才がこのように語るに至った、その過程について僕は知りたいと感じている。しかしそれを為すには当然、高度な数学的素養が要求される。


… 僕には無理っぽいなぁ、、無念。