語る、ということの布置

しばしば、このようなことが言われる。

「表明された言説の正当性は、その当事者の置かれた状況や動機、党派性などから切り離し、その内容の是非で判断しなればならない」

確かにこのような姿勢は正しいように思えるし、ある側面では実際、そうなのだろう。しかしまた同時に、このようにも思える。おそらく、このような姿勢だけでは十全ではないだろうし、取りこぼしてしまうものもあるのではないだろうか、と。

言説の正当性を判断するということについて、私たちは良く、その言説の合理性、論理的な整合性を評価しなければならない、論者にいかなる動機や背景があろうとも、ただそのことだけで言説の正当性が措定されるわけではないのだ、といったように語る。

そしてそのように語られるとき、私たちを取り巻く様々な力学 --- たとえば政治的な党派性、対象への感情移入など --- は、そのような合理的な判断からは切り離すべきもの、ないしは、そのような判断を狂わせるものだとして扱われる。

実際、私たちを取り巻く様々な力学、それは投影の渦巻く力動の場として作用し、しばしば、被対象と論者とが未分化である関係を形成していく。特に、ある種の当事者の置かれた状況や様々な党派性は、往々にして、投影のための最適な憑代となってしまう。

対象と自身との同一視、過度の聖化、スティグマの付与、バカげたレッテル貼り、存在すらしない「隠された意図」の暴露、などなど…、、それらの渦巻く力動は、確かに人を論理から遠ざける、忌まわしい力でもあるように思える。そして、その上で語られる言葉は --- 先の判断基準に従うならば --- 必然的に非合理的な言説、という評価しか受けないだろう。

そして、そのような評価は確かに妥当なものなのだ、と言える。なぜならそのようにして語られる言葉は、論者自身の自覚もないままに --- たとえ誠実な論者であったとしても、その誠実さを裏切るかのように --- 客観性や論理性を踏み外させ、方向性を見失わせていってしまうものなのだから。

しかし、そのような評価とともに別の正しさの位相もまた、同時に存在する。その正しさとは、論理によって捨象された「言説の表出の合理性」、つまり、その言説が表象に至るまでの背景は、まぎれもなく世界に位置づけることのできるものである --- より積極的には、だからこそ捉えなおされるべきものである --- という視点に他ならない。

だから、このようにも言われなければならない。先の評価は、「言説としての合理性」を問うという限りにおいてのみ、正当なものなのだ、と。(しかしもちろんこのことは、「に過ぎない」という意味にはならない)

私たちの論理とは、世界を限定することによって、焦点を絞ることによって、整合性を保つという宿命を背負ってもいる。私たちが「物自体」に触れることができないように、論理もまた、そのことによって世界そのものを包摂することはできない。

私たちが言説の是非を問うとき、私たちは、整合性の焦点からこぼれ落ちるものを無視することによって、その論理の正しさを証明していく。そのようなものであるにも関わらず、私たちはしばしば、この、限定された合理性によって惑わされてしまう。そして、「それは非合理である、だから、彼は何も語ってはいないのだ」、そのように断じてしまう。

ここで私たちは、このように問うこともできるだろう。「論理的でない表明とは、果たして、何も語っていないものなのだろうか?」、と。この、ある意味で素朴な眼差しは、そのような惑いから私たちを世界の側へと引き戻す、そういった力を持つようにも思える。

私たちは深夜、夢を見る。夢というものは突拍子もなく、それは明らかに非論理的で不条理で、合理的なものとは見なせない。しかし、確かにそこに情動は存在するし、また私たちは、漠とした印象や意味をそこに見出していく。夢の中には日常において意識に昇ることが無かった、様々なこころの働きを見い出すことができる。

そして、先の評価において切り捨てられた、投影の渦巻く力動の場、それは、夢の世界の流出だと言える。私たちのこころの裡に去来する、意識に昇ることのなかった、語られることのなかった様々な情動が、その中においてぐるぐると渦巻いているのだから。

私たちは一般的に、夢と言うものを個人的なもの、極めて閉鎖的なものとして捉えている。しかし、私たちの日常においても --- たとえば、ふとした仕草の中に、ちょっとした語り口の中に、ささやかな触れ合いの中に --- 夢の世界は常に流出し、その中で私たちは、私たちが無自覚でいる社会的な階層や、自身を束縛している様々な困難、孤独感、または愛情、、それらについて語り合ってもいるのだ。

それらの情動は --- その無意識性によって --- 生得的な反応、そして時代的な状況によって方向付けられ、それはさながら、社会が見る大きな夢のように、人々のこころの裡に布置されていく。

だから、投影の中で渦巻く情動は、前体験的なもの --- 因果的に浮かび上がったというだけではなく、あらかじめ織り込まれていたと言う意味において --- とも言えるし、同時に、語られることのなかったものたちの、交流の過程、そして、その結果だとも言える。

相対し、議論をおこなう二人の論者は --- 二人は言説の正当性を争っている、ないしは、求めているわけだが --- 同時に、ぐるぐると渦巻く感情の中で、夢を見てもいる。議論がかみ合う時、それは単に論理的な整合性のみならず、夢の語るところと、論者の言葉とが寄り添い、そして、二人のこころの深いところでもまた、同意が形成されていることを示しているかのようにも見える。

そして、議論がすれ違っている、かみ合っていない、といった言われ方をする時、それは、単に論者が浅慮であることを示すわけではない。議論がすれ違うという、その布置と、彼らの夢の世界、その論者たちが置かれている社会的な状況との間に、私たちは、連関を見出すことができるのだから。