星の輝く天空と、内なる道徳律

今更だけど、「姥捨山論争」を追っている。で、その過程で読んだid:sivadさんのエントリについて、ちょっと思うところがあったので、軽く書いておきたい。

「責任」というのは自然における因果を示す概念ではなく、人間・社会がそれらを元に「設定」する人工的な関係なのです。人や社会が生きていくための「ルール」であって、自然法則ではない。
(……)
つまりはどういう生き方、どういう社会を是とするかで「責任」の設定は変わって来る。またそれは「ルール」に過ぎないので、実際の問題解決には別に実際の科学的因果関係を検討することが必要となる、というわけです。

http://d.hatena.ne.jp/sivad/20070417#p1

いつもながら、sivadさんの説明は明快でわかりやすい。はてブなどを見ていても、この説明に強く賛同している人が多いようだ。sivadさんの指摘を敷衍するならば、結局のところ「責任」という概念は、因果関係をもとに人間が措定するものに過ぎないのだから、時代や社会背景によっても変動し得る相対的なものだ、とさえも言えるだろう。

この「責任」という概念についての説明は、一見、とても納得できるものだと言える。でも、「これって、そんなに単純な問題なのだろうか?」という疑問は残る。いや、と言うよりも、むしろ根本の部分で「これは顛倒した把握なのかもしれない」とも感じる。

たとえば、以前にも触れた「人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (中) (NHKブックス)」の中で、ピンカーはこう書いている。数という概念について、「(進化の過程の中で、人間の)数の能力が進化した(そして進化した結果、数の概念は獲得された)という事実をもって、だから数は(人工的に作られた)幻だとは言えない*1」「三という数はでっちあげられたものではなく、発見や探求が可能な実在の性質をもっている」「だからこそ私たちは、別の文化であっても、それどころか別の惑星であっても、同じような数学上の結論がでることを期待する」としたうえで、このように続けている。

 おそらく道徳性にも同じ議論が成り立つ。(……)世界が私たちに提示しているノンゼロサムゲームでは、両陣営はともに利己的にふるまうよりも、ともに非利己的にふるまったほうが都合がいい(突き飛ばして突き飛ばされるよりは、突き飛ばさず突き飛ばされないほうがいい)。よりよい生活という目標を考えれば、一定の条件が必然的にでてくる。あなたが私を害するのは不道徳であるということを理解する回路を備えた生物が、私があなたを害するのは不道徳であるということに反する何かを発見することはありえない。したがって数や数の感覚の場合と同じように、道徳システムも、別の文化であっても、それどころか別の惑星であっても、同じような結論がでるような方向に進化することが期待できるであろう。(……)私たちの道徳感覚は、私たちの頭のなかで無から考えだされたのではなく、本来的に備わっている倫理の論理とかみあって進化してきたのかもしれない。
 道徳論理がプラトン的存在物だという話にはついていけないという人でも、道徳性を社会慣習や宗教的教義以上の何かと見なすことはできる。道徳感覚は、存在論的立場はどうであれ、人間の心の標準装備の一部である。それは私たちがもっている唯一の心であるから、私たちにはその直観を真剣に受けとめる以外に選択の余地はない。もし私たちが(少なくとも、ある時にある人たちに対しては)道徳的観点からものを考えずにはいられないようにつくられているとしたら、私たちにとって道徳性は、あたかも全能の神によって定められたかのように、あるいは宇宙に書き込まれているかのように実在する。(……)それらが本当に「そこにある」のか、それともそこにないと考えることを人間の脳が不可能にしているためにそこにあると思っているだけなのか、いったい私たちはそれを知ることができるだろうか?そしてもしそれが、人間の考え方にもともと備わっているとしたら、どういう不都合があるだろうか?私たちはおそらく、カントが『実践理性批判』でしたように、私たちの条件をよくよく考えてみるべきだろう。「二つのものが、それについてたえず頻繁に考えれば考えるほど、ますます新たに称賛と畏怖の念をともなって心を満たす。星の輝く天空と、内なる道徳律である」。*2

ここで指摘されている「道徳」と「自然」との関係は、言ってみれば、私たちの科学や工学と「自然」との関係に似ている。たしかに科学や工学も、人間が産み出した概念的な産物だと言うことができる。そして、社会環境や時代背景によって変動する側面もあるのかもしれない。しかし私たち人間の把握に揺らぎがあったとしても、「自然」そのものが揺らぐわけではない。そして完全ではないにしても、「自然」と人間が把握した科学的知見との間には、確かに妥当と言える関係性を見出すことができるし、実際にその知見を利用することもできる。何よりも、その知見は蓄積され、漸進的により深い「自然」の把握へとつながっていく。

このような観点と、「道徳」や今回焦点となっている「責任」という概念が、無縁であると言い切るのは難しい。すくなくとも、「科学は人工的な設定であって自然法則ではない」という言い方が議論を呼ぶのと同程度には、この「道徳」や「責任」をめぐる議論は簡単に言い切ることのできない問題なのだ、とは言える。ちなみに、この「道徳」をめぐる議論については、id:shorebirdさんによる「Moral Minds」の書評がとても勉強になるし、興味深い*3

*1:括弧の中は引用者による補足

*2:人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (中) (NHKブックス)」,P109-111

*3:2007-02-24以降のエントリを参照