言葉が生じるとき

あなたは普段、自分の行動を理解しているし、自覚に基づいて動いている、と見做している。自分の行動には理由があり、そして、他人の行動もまた同様に理由があってのことなのだ、と見做している。

同様にあなたは普段、眠りの中で見る夢の中でも、少なくともその中では、自分の行動を理解しているし、自覚に基づいて動いているのだと感じている。自分の行動には理由があり、そして、他人の行動もまた同様に理由があってのことなのだと感じている。

しかしその自覚がいわゆる日常の自覚と異なるとするならば、それは、眠りから覚めた後、その夢の中での自身の行動やその置かれた状況について、「全く非合理で、なぜそうなったのかが理解できない」と感じるからに他ならない。

さてここで、一つの問いを立てる。あなたは今、PCや携帯などの端末から、インターネットを介してこのブログを読んでいる。そのように思っている。しかしその状況は、そしてその確信は、いかにして生じてきたものなのだろうか?

「確信」という概念を定義付けることは難しい。しかしそれを単に「疑問を抱かない心理状況」と見做すなら、確信とは、体験に既に織り込まれているものだ、とも言える。私が今理解している状況、そのように見做している状態、そう、体験とはそのような理解を、確信をも含んで、今ここに生起している。

ある人が確信を持って行動する様子を見たとき、それに対して私たちは、時として「そのような行動は理解できない」と言ってみせたりもする。しかしある人に確信が生じるとき、それはちょうど、夢の中でのあなたがそうであるように、「それはそのような体験そのものなのだ」としか言いようのない何かが、その人に生じている。つまり、確信そのものを伴った、確信そのものが織り込まれた体験が、そこにあるのだ。

だから確信は、秘密へと通じる。私が抱く確信は、私と他人を、私と世界とを分け隔てる。だからそれはその人だけの秘密であり、世界との関係でもある。しかし同時に確信は、埋没へも通じる。疑うことのない心理は、機械的に私を世界へと埋没させていくからだ。

言葉が生じるとき、私たちはある葛藤に直面する。言葉は私たちの確信を後押しする。しかし同時に、そこにあったはずの確信から、私たちを引き離す。

言葉がわれわれに生じてくるのだ。われわれは深遠な不確定性の犠牲として、それに直面する。 *1

確信において存在したある種の一体感、神秘的な融即の感覚から私たちは引き離され、言葉を媒介とした世界が、そこに立ち現れる。

それを通じて「他者の意志」が表明されるすべてのことは、人間 ――人間の思考、言葉、イメージ、そしてその限界さえも―― から生じてくる。*2

このようなことにどのような意味があり、どのような設計であるのか、計り知ることなどできるのだろうか。しかしいずれにしても、まるで幼年期を離れ、青年期へと至るように、私は世界から分かたれ、歩んでいくことになる。

葛藤の問題に直面した人が、それを全く自分自身の責任において引き受け、自分を裁くため昼夜をわかたず坐っている裁判官の前において、それを引き受けるならば、自分が孤独な立場にあることを知ることになろう。今や彼の人生において、他と話し合うことのできない真正の秘密が存在することになる。*3