コヤニスカッティ――平衡を失った世界

コヤニスカッティ”とはホピ族の言葉で“平衡を失った世界”を意味する。
映画 コヤニスカッティ - allcinema


自然な感情/感情の自然状態 - good2nd」経由で、「http://d.hatena.ne.jp/vanacoral/20080117」を知る。これは、id:kojitakenさんの

私なんか、あのテロが起きた時、アメリカはテロを起こされても仕方のない国だ、と思いました。辺見庸が、あの映像を見て快哉を叫んだ、と書いてますけど、それがリベラル・左派系の多くの人の感覚だったと思います。

というコメントや、

テロはあってはならないことですが、アメリカはテロを受けても仕方のない国、これは、この2001年の末に旧友と会った時、彼が口にした言葉です。私も相槌を打ちました。

といったコメントが「不謹慎だ」と批判を呼び、さらに、good2ndさんがこれらのkojitakenさんのコメントとその見解について「自然な感情/感情の自然状態 - good2nd」というエントリで

ある人々にそういう感情が現に生まれていることを認識し、その背景を考察することは必要でしょうが、そしてある程度共感することも場合によっては必要かもしれませんが、しかし考察のためにその同じ感情に飲み込まれてしまう必要はないのではないでしょうか。私達は、かつて「自然な感情」「当たり前の感覚」と考えられてきたことを、これまでいくつも乗り越えてきたのではないでしょうか。(…)そのように無批判に肯定された感情は、いわば「自然状態」にあると言えるんじゃないかと思います。政治や法によって人間社会の「自然状態」が克服されるとするならば、知性や想像力によって、そのような感情を支えている誤謬や偏狭や怨嗟を認識し、感情の「自然状態」を克服していくことだって(たとえわずかずつでも)できるんじゃないでしょうか。

と評した、という流れの応答になっているようだ。

そういったわけでこれらの応答は、kojitakenさんが度々「辺見が911に対し快哉を叫んだ」と触れているように、辺見の文章がひとつのきっかけとなって始まった、とも言えるのかもしれない。しかし不思議なことに誰も、その辺見のテキストを参照しようとはしていないようだ。僕の記憶が間違っていなければ、辺見が初めてそのような表現を使ったのは「永遠の不服従のために」に収録されている、「コヤニスカッティ」という一篇からだった。そこで、その「コヤニスカッティ」から、それがどのような表現だったのかを一部引用して紹介したいと思う。

あのテレビ映像を見ていたら、ついつい、映画『コヤニスカッティ』を思い出してしまいました。
フィリップ・グラス鎮魂曲が、十数年ぶりに耳の奥で低く鳴り響きました。
悲しみと不安と、そして、裏腹に、
快哉を叫びたくなる気持ちが胸にわきでてくるのを、
どうしても、どうしても抑えることができませんでした。(友人K・Sの葉書から)

(……)K・Sの正直な表現は、マスコミの偽りの常識を標準にするならば、不穏当とされるかもしれない。だが、じつのところ、少なからぬ人々の偽らざる内心を表しているように私には思える。葉書には「多くの人の命を道連れに、米国の象徴的建物に突っ込んでいったテロリストたちの、絶大な確信が哀しい」ともあった。同感である。いく千人もの罪もない犠牲者を悼む気持ちは、この場合、むろん、前提なのである。さはさりながら、私は別の思いを抑えることはできない。それは、ある種の絶望である。すなわち、テロリストの「絶大な確信」のわけと、米国に対する、おそらくは億を越えるであろう人々のルサンチマンの所以を、あの、C級西部劇の主人公のような大統領は金輪際考えてみようとはしないであろう、ということだ。(……)
テロリズムとは、こちら側の条理と感傷を遠く越えて存在する、彼方の条理なのであり、崇高なる確信でもあり、ときには、究極の愛ですらある。こちら側の生活圏で、テロルは狂気であり、いかなる理由にせよ、正当化されてはならない、というのは、べつにまちがっていないけれど、あまりにも容易すぎてほとんど意味をなさない。そのようにいおうがいうまいが、米国による覇権的な一極支配がつづくかぎり、また、南北間の格差が開けば開くほど、テロルが増えていくのは火を見るより明らかなのだ。圧倒的な軍事力で激しく叩かれれば叩かれるほど、貧者による「超政治」として、テロルはより激しく増殖していくはずである。(……)
仮構の構成能力、作業仮説のたてかた、つまりはイマジネーションの質と大きさにおいて、今回の事件を計画・策定したテロリストたちが、米国の(そして世界の)あらゆる映像作家、思想家、哲学者、心理学者、反体制運動家らを、完全に圧倒した(…)世界は、じつは、そのことに深く傷ついたといってもいい。抜群の財力とフィクション構成力をもつ者たちの手になる歴史的スペクタクル映像も、学者らの示す世界観も、革命運動の従来型の方法も、あの実際に立ち上げられたスペクタクルに、すべて突き抜けられてしまい、いまは寂として声なし、というありさまなのである。あらゆる誤解を覚悟していうなら、私はそのことに、内心、快哉を叫んだのである。そして、サルトルジル・ドゥルーズがあれを見たならば、なんといったであろうかと、くさぐさ妄想したことであった。*1

この文章が書かれた当時から、もうすでに7年近くが経とうとしている。いささかナイーブにも思えるこの文章は、しかし、あれから7年近く経った今という時においても、そこに含まれている虚無を、未だに私たちにつきつけている、とも感じさせる。この文章でほのめかされた「絶大な確信のわけ」は、たとえばガザで*2バグダッド*3、あるいは私たちが気にもかけない世界のどこかで*4、消えることなく残り、あるいは、今でも産み出され続けている。そして、それらの状況を主に産み出している一方の側は「金輪際考えてみようとはしない」という構図、それは、何ら変わってはいない。

辺見のこの文章は、このような状況を直観的に切り出したものだとも言えるし、また、「ざまあみろ」と快哉を叫んだり、「アメリカはやられても仕方がない」と主張するような、単純な感傷とは一線を画するものだ、と言うこともできるだろう。

しかしもし仮に、辺見のこの文章が、単に「ざまあみろ」と快哉を叫ぶようなものだったり、あるいは、「アメリカはやられても仕方がない」と主張するような意図を持つものだったとしたら、その場合は、やはり「不謹慎だ」と批難されるべきだったのだろうか?

911快哉を叫ぶ」といった表現や、「アメリカはやられても仕方がない」という主張に対して「不謹慎だ」と言うとき、そこにはたとえば、「罪もない犠牲者たちへの冒涜だ」といった想いや、「残された遺族たちを傷つけるものだ」といった想い、そして、「人の命の重さが軽く扱われるということへの不快感」などが込められている、と言えるだろう。そしてそれらの想いや意図は、「良識」に照らし合わせるならば、「自然な感情」「当たり前の感覚」なのだと、そのように多くの人が思うことだろう。

しかしここで、立ち止まって考えてみて欲しい。911の犠牲となった人々、彼らは、なぜ命を奪われなければならなかったのか。その原因を産み出したものは、一体何だったというのか。

911の起きた2001年の初頭、ニュースを賑わした話題の一つに、タリバンによるバーミヤンの大仏破壊があった。当時、日本でその話題を扱うメディアの多くは、そして、それに触れる私たちの多くも、タリバンのその行為は、「世界が注視する中で歴史的な文化遺産を破壊した、原理主義による偏狭な暴挙だ」としてしか取り扱わなかった。

さて、ここに約2000万人の飢えた国民がいる。そのうち30%は飢餓と政情不安のために難民となり、10%は死に、あるいは殺され、残りの60%は餓死寸前の状況にある。特に最近の干魃の後はそうだ。国連の統計によると、この数カ月のうちに、さらに100万人が餓死で死ぬかもしれないという。もし今、アフガニスタンに入国すれば、人びとが街角に倒れたまま放置され、死にかけているのを目にするだろう。飢えで動く体力もなく、戦うための武器も持たず、あの過酷な刑罰を怖れて犯罪を犯す勇気も残っていない。唯一の救済案は、そのままそこで死ぬことだ。それは、世界を覆いつくしたこの人類の無関心の中で起こっている。私たちの時代は、「人類は互いが互いの一部」であったサアディーの時代ではない。
まだ心が石になっていなかった唯一の人は、あのバーミヤンの仏像だった。あれほどの威厳を持ちながら、この悲劇の壮絶さに自分の身の卑少さを感じ、恥じて崩れ落ちたのだ。仏陀の清貧と安寧の哲学は、パンを求める国民の前に恥じ入り、力つき、砕け散った。仏陀は世界に、このすべての貧困、無知、抑圧、大量死を伝えるために崩れ落ちた。しかし、怠惰な人類は、仏像が崩れたということしか耳に入らない。こんな中国の諺がある。「あなたが月を指差せば、愚か者はその指を見ている」
誰も、崩れ落ちた仏像が指さしていた、死に瀕している国民を見なかった。衛星放送、メディア、新聞、ラジオ、テレビ、ファックス、電話、インターネット、このようなコミュニケーションのためのあらゆる機器は、何のためのものなのか。私たちはこうした道具そのものか、それを通して伝えられる決まりきったことだけを、眺めることしかしないのだろうか?ターリバーンの無知、彼らの原理主義は、アフガニスタンのような国の不吉な運命に向けられる世界の無知よりも深いのだろうか?

http://spiral_inspiration.at.infoseek.co.jp/afghanistan.html

もちろんこれは、911を産み出した構図の、ほんの一部に過ぎない、と言えるのかもしれない。ただ、このような側面からだけでも、やはりこのように言わなければならないだろう。「アメリカはやられても仕方がない」という言葉は、間違っている、と。つまり、私たちは「アメリカはやられても仕方がない」と言うかわりに、こう言わなければならない。「(彼らを見殺しにした)私たちは、やられても仕方がない」のだ、と。そして、「911快哉を叫ぶ」という表現も、確かに不謹慎なものだ、と言える。なぜなら、この現実に釣り合わないぐらい、その言葉はあまりにも軽いものだからだ。

しかしこれらの言葉は、果たして「ショックで言葉も出ない」と言うほどの、それほどの問題なのだろうか。本当に不謹慎と言うべきは、これらの言葉なのだろうか。率直に言えば、テロを歓迎する言葉なんて、本当に些細なことで、そんなものは問題にするに値しない。そんなものが、一体なんだと言うのだろう。本当に問題にすべき、もっと命を愚弄した振る舞いを、現に私たちはしているではないか。

バグダッドの街角で日常的に見られた/見られる光景を比較してみよう。
1つは米軍のイラク侵攻が始まるまえのもの。次は現在のものである。
ハイファ通りはバグダッドの中心部、チグリス川に沿って南北に走る。


イラクの街角風景(米軍侵攻前)
Video: Iraq street scenes (Before the invasion)


※ハイファ通りの死と混沌(こんとん)
Video: Death and Chaos On Haifa Street Iraq
http://www.liveleak.com/view?i=32dd9d6d46&p=1


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上に掲げた二つの映像を順に見た後で、イラクの人々を前にして、こう言い放つ自分の姿を想像してみて欲しい。「私たちはアメリカに基地を提供しています。また、ペルシャ湾アメリカの艦船に給油もしています。自衛隊も派遣しています。私たちの政府は、アメリカのイラク政策を全面的に支持しています。私たちは、そのような政府を選択しています。でも、私たちはあなた達を攻撃しているわけではありません。」

…このような書き方は、卑怯だと感じる人もいるのかもしれない。まるでプロパガンダのようだと、嫌悪感を覚える人もいるかもしれない。しかしこれが、この世界における私たちの振る舞いの、偽る事なき現実ではないか。

だから、真にテロの犠牲者を悼むのであれば、そして、人の命が軽く扱われることに憤りをおぼえるのであれば、私たちは、テロを歓迎する言葉を「不謹慎だ」として批判する前に、こう言わなければならない。「私たちは、私たちの社会の選択の結果として、彼らを犠牲にしてしまった、殺してしまったのだ」、と。そして、「その犠牲を産む原因となる選択を、今も現在進行形でおこなっているのだ」、と。

このような振る舞いを私たちがしている以上、テロを歓迎する言葉などよりも、

「やられても仕方が無い」、こうした発想こそが、世界中に憎悪の種を撒き散らす*5

このような言葉の方が、よっぽど不謹慎なのだとすら僕には思える。自分たちが"やられても仕方がない"振る舞いをしているにも関わらず、まるで自分たちが善意の第三者であるかのように、恥知らずにもそのようなことを言う、これは、欺瞞ではないだろうか。

そして、私たちの社会の無関心や、私たちの振る舞いによる直接・間接の結果として、多くの人々が圧倒的としか言いようがない困難な状況に陥り、そして、見殺しにされたり、殺されていったりする状況がある中で、そういった状況下で産み出された感情が、なぜ、「無批判に肯定された"自然状態"にある感情」などと言えるのだろう。このような言い方ほど、人間と言う存在を冒涜した言葉が他にあるのだろうか?*6

僕は冒頭の応答を読んでいる間、「まるで僕たちはマリー・アントワネットみたいじゃないか」という思いを抑えることができなかった。自分たちの狭い世界の中で、自分たちの振る舞いがどのような結果を招いているのかを見ることもなく、現実を置き去りにして、「"やられても仕方がない"という発想は不謹慎だ」だとか、「誤謬や偏狭や怨嗟を認識し、感情の"自然状態"を克服すべき」だとかおしゃべりをしている。まるでマリー・アントワネットが、無邪気に「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」、と言い放ったかのように。

最後に。

カリフォルニアの日光と顔に感じるあの冷涼な微風のなか、最も過酷なのは、厳然と繋がった二つの国の二つの現実が共存していると知ることであり、しかも、私自身の国のたいがいの人たちは、このことにほとんど気づいていない。


イラクでは、もちろん、異種のもの、相対立するものは何もなく、不断の容赦ない粉砕と苦難だけがあり、視界に終点の見えない悲劇的な絶望と落胆の状態が拡散しつつある。


ダール・ジャマイル「Eメールが伝えるイラクの地獄絵」 *7

この文章は米国について書かれたものではあるけれど、しかし、この二つの現実とは、今ここに生きる私たちの、この世界そのものではないだろうか。私たちの世界。私たちのコヤニスカッティ、平衡を失った世界――。




*1:isbn:4620315893, P52-56

*2:たとえば http://0000000000.net/p-navi/info/news/200801190158.htm

*3:たとえば http://teanotwar.seesaa.net/article/77657796.html

*4:たとえば http://agrotous.seesaa.net/article/79100900.html

*5:http://d.hatena.ne.jp/vanacoral/20080117

*6:蛇足だが、good2ndさんの「自然な感情/感情の自然状態 - good2nd」というエントリについて少し触れておきたい。僕はgood2ndさんが言うところの「自然状態」という言葉の意味が、残念ながら全く理解できずにいる。この言葉をごく一般的な意味で解釈するなら、「社会契約以前の状態」といった程度の意味になるだろう。しかしもし仮にそのような意味で使われているとするなら、たとえば、革命時に人々が見せる一瞬の煌めき――もちろんそれは、時として血生臭いものではあるけれど――それも、単に克服すべき「自然状態」の感情として扱われるのだろうか? また、乗り越えられるべき「自然な感情」「当たり前の感覚」や、「克服すべき"自然状態"の感情」といったものは、いったい誰が、克服すべき・克服すべきでないといった選択をおこなうというのだろう?

*7:via http://0000000000.net/p-navi/info/column/200708072036.html