死刑や終身刑についての覚え書き

引き続き体調不良なため、手短に。


光市母子殺害事件の判決を受けて、死刑制度の是非や、その代替としての終身刑の必要性について、問いかける意見が散見される。それらの意見や議論を読んだうえでの個人的な感想を、全く未整理ではあるけれど、自分自身への覚え書きとして記しておく。

人を裁き刑を執行するという暴力を、国家が制度として独占している――ないしは、市民の側が、制度に丸投げしている――という現状がある。死刑や終身刑をめぐる議論の多くは、その前提をまるで意識せず、結果として、単にその現状を追認するだけのものとなってしまっている。そのような意味で、それらの意見や見解の大多数を、僕はナンセンスだと感じてしまうし、全く首肯できない。
人を裁くということ、その結果として刑を執行するということは、どのような意味を持ち得るのか、持ち得ないのか。そして、まぎれもなく暴力と呼び得るそれらの行為の、行為主体はどこにあるのか。僕としては、まずそれらを整理したうえでなければ、吐き出される言葉は、単に現状を追認するばかりとなってしまうじゃないか、と言いたい。