はじめに
10代の時期に、僕はユングに出会った。
それから常にユングを意識し、ユングについて研鑚を重ねて来た。 ---- と言うのは嘘で、浅く表面をなぞっただけに過ぎなかったし、ここ数年はほとんど触れることさえ無かった。
にもかかわらず、自分の土台の中にはユングが大きな比重を占めていると感じる。それだけのインパクトが、間違いなくあった。
id:seijotcp:20040428で、ユングが俗っぽいオカルトとして十把一絡に扱われているのを見た時、僕は反射的に、「それは違う」と反論した。
そして、それに対する先方からの意見の要点をまとめると、以下のようなものであった。*1
精神分析には科学的実証性がないため、有効な説明概念が必要となる。翻って、ユングの理論には科学的実証性以前に論理的な問題があるのではないか。
・・・痛いところを突かれてしまった。ユングにとって、ではなく、僕にとって。
おそらく先方は、まともにユングを読んだことがない。また、コメントの中で「ユング原理主義の方」なんて表現を使っているのも、ちょっと酷いよな、と思う。
しかし、僕には有効な反証が出来ないだろう。僕には、ユングを読んで感じたことを、自らの言葉として言語化することが出来ない。おそらく、ユングの引用をしてお茶を濁すことぐらいしか、出来ないのではないだろうか。つまり、僕自身が僕自身のものとして、ユングを何ら理解していなかったことに、今頃になって気がついたのだった。
僕は、ユングから何も得ていなかった。
そのような状態で反証を提示したところで、他人の批評に応えることは難しい。
これからの、このblogの方針
今までこのblogでは、日々の雑感を垂れ流してきた。
しかし、ここにきて、このblogの方針がはっきりと定まったように思える。つまり、ユングについて学び、その有用性を検証する、ということである。
そのために、今後は主に以下の2点を中心として、このblogに晒していこうと思う。
- ユングのコンテクストを読み解いていく
- 自身の内面について ---- 特に夢に関して ---- 記録を残していく
1.は、おそらく亀の歩みのようになるだろうが、邦訳されたものを中心に、少しずつでもユングのコンテクストを咀嚼し、それを記録に残そうということである。
ユングのコンテクストからその周辺領域のコンテクストに飛び、また再びユングのコンテクストに戻る・・といった、再帰的なやり方をとるかもしれない。
まずは、ユングが最晩年、その弟子とともに著した「人間と象徴」(ISBN:4309240453)から始めようと考えている。これは、ユングが心理学的素養のない一般の人間のために自説の概観を示したものであり、導入としては最適と判断したためである。
2.は、僕個人の内面的なイメージが、いかに変化していくのか(あるいはしないのか)を、記録に残していく、ということである。
夢は最大のプライバシーと言える。そういった内容をネットで晒すことは、全く愚かな行為で、無思慮だと言わざるを得ないだろう。
しかし、夢及び様々なイメージを記録にとることは、ユング理解において欠かせない要素である。また、夢を記録に残し続けることが、思いのほか消耗するということは、僕自身の経験からもわかっている。
そのため、モチベーションを維持するためにも、また、一つの実験的行為としても、blog上で自身の夢やイメージを晒すことを決意した。
なぜ、ユングにこだわるのか
なぜ、ここまでユングにこだわるのか。それには、以下に引用した、ユングの一文をお読みいただきたい。
もし三十年前に敢えて予言する人がいて、われわれの心理的な発展は中世のユダヤ人迫害の復活に向かっており、ヨーロッパは改めて古代ローマの執政官の束桿とローマ軍団の行進に震え上がり、二千年前の古代ローマ式の敬礼がもう一度採用されるかもしれない、そしてキリスト教の十字架のかわりに太古的な卍の印が何百万の兵士を喜んで死におもむかせるであろう、と述べたとすれば、その人はわけのわからない愚か者であると嘲りの声を上げられたことであろう。それが今日ならどうであろうか。驚いたことには、これらの不条理はすべて恐ろしい現実なのである。個人的生活、個人的な病因、そして個人的な神経症などというものは、今日の世界ではほとんどフィクションとなってしまった。太古的な「集団表象」の世界に生きていた過去の人間が、今や再びはっきりと見える形で恐ろしいほどリアルに生き返ったのである。しかもこのことが数人の狂った個人にだけでなく、何千万の人間に起こったのである。
ISBN:431400391X 元型論 P20
この文章は、1936年に発表された。
僕達が生きる今日もまた、再び同様の問題に直面しつつある。
常にその問題と向き合い続けたユングの足跡をたどり、彼がいかなる知見を得たのか、それを知る必要があるのだと感じている。
2005年6月19日 追記
さて、上記の内容を書いて一年以上が経過した。
このblogを読んでいただければわかると思うが、現状は酷いものだ。
勢いで書いてしまったが、冷静に考えれば、上記の方針はblogという形式になじまないと感じる。もし仮に、真摯にそれを行おうと考えるのであれば、blogという形式に拘るべきでないだろう。
逆にいうならば、blogという体裁をとる以上、もっといい加減でよいのだろうと今では思うようになった。
以上、言い訳です。
*1:正確には、id:seijotcp:20040428のコメント参照のこと