n個の性


「アニマ/アニムス」は、フェミニストが参照にするドゥルーズの「n個の性」という概念とは全く逆のベクトルのものであり(中略)(上野千鶴子×浅田彰『接近遭遇』参照)


id:seijotcp:20040507



「n個の性」。。? 恥ずかしながら、知らなかった。


そこで調べてみると、参考になるページを発見した。


http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Green/6462/zadankai/zadankai1.htm


残念ながら、「n個の性」という概念に関して、このページを読んだだけでわかるわけがない。
しかし、このページで引用されている上野千鶴子浅田彰の対談の内容がちょっとひっかかった。ちょうど、id:seijotcp:20040507で「参照」と書かれている箇所は、このページで引用されている箇所と同じだろう。


孫引きだが、引用する。

> 上野
> ドゥルーズ=ガタリって知らないから教えてほしいんだけど、n個の性って
> いう概念とユングのアニマ・アニムスとは、どこがどう違うの?
>
> 浅田
> ユングとはベクトルが完全に逆だと思う。ユングの場合は、男の中にも
> 女がいて、女の中にも男がいて、それがうまく相補的に結合すると全一
> 的な円環が達成されるという話でしょ。ドゥルーズ=ガタリの問題という
> のは、まさに、そういう想像的全体性からいかに逃走するかということな
> ので、現実には、男は男であり女は女であるという枠がはめられてはい
> るけれど、そこからとめどもなく逸脱して、女になり、動物になり、さらに
> は鉱物のようなものになり、そうやって、あらゆる物に対してエロティッ
> クな生成の関係が開かれ拡散していくというベクトルだと思うんですよ。


http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Green/6462/zadankai/zadankai1.htm
石川雄一氏の発言から引用



なるほど。
部分的な引用のみを読んだ上で判断を下すのは危険だが、少なくとも上記の範囲で読む限り、確かにベクトルとしては逆の方向を向いている。


ユングが最も重視していた概念は、「個性化 - individuation」というものである。


男の中にも女性性があり、女の中にも男性性がある。そして、それが相補的に結合する事によって全一的な円環が達成される。(浅田氏の発言を若干編集)


男性性と女性性が相補的に結合すると言っても、それは決して現実の家庭やカップルを意味するわけではない。
つまりそれは、自分自身の内界の多様性を見つめていく、そのことによって自己の全体性を回復し、自分自身の世界におけるユニーク性を認識する、ということである。*1


これは、願望充足的な自己実現ではない。むしろ、個人的な願望とは相反する場合もあるだろう。たとえば、ジェンダー的な文脈で言うならば、「男は男らしくあるべきだ。」という社会的通念から自我が形成されたとしても、自己の全体性はそれを指向していない、といったことがあり得る。その場合、個性化の道を進むにつれ、自我の指向と心の全体性の指向との間に葛藤が生まれる。


ドゥルーズ=ガタリの方法論が(上記を読む限りでは)、限りなく世界に対して拡散していくのに対し、ユングの言う「個性化」とは、逆に世界を自分自身へとたぐり寄せる行為だと言えるだろう。
ドゥルーズ=ガタリの方法論が1個の性から n個の性へと拡散していくのとは逆に、「個性化」では n個の性から自己へとむかっていく。


しかし、気になるのは浅田氏の「想像的全体性」という発言だ。じゃあ、ドゥルーズ=ガタリは「想像的拡散性」なんですね :-p


いずれにせよ、ベクトルが逆だとしても、行き付く先はそれほど違わない気もする。

蛇足



それにしても、なんで日本で「ユング」というと、河合隼雄林道義しか名前が出ないんだろう。。最悪だ。

*1:この辺、誤解を招きそうな表現である事は自覚しています。