葛藤の無い言葉

911総選挙前後から、ネットをうろうろと巡る時間が長くなってしまった。


さまざまな言説に触れて、触発されたり、盲が開かれたり。
しかし、そういった行為の中で、ある種の違和感が、常に脳裏を離れずつきまとい続けていた。


この違和感の正体は、一体なんなんだろう。。。
そう薄気味悪く思いつづけていた。


でも。
今日になってようやく、その違和感の一端を、理解することができたような気がする。


「この結果は、小選挙区制の弊害によってもたらされた」
「(世論調査の結果から)民意は、必ずしも小泉政権に賛同するものでは無かった」
「小泉総裁の任期が切れた後、この流れがこのまま続くとは思えない」
「次の選挙の機会には、必ず揺り戻しがくるだろう」


なるほど。
皆さん、大変ものわかりが良いですね。


でも、僕は思う。


・・・なぜ。


なぜ、こんなにも早く結論が出せるのだろうか。
そして、なぜ、こんなにも安閑としていられるのだろうか。


確かに、僕達の目の前に、この現象がはっきりと姿形を表したのは、この選挙の前後だったかもしれない。
でも、思い出してほしい。
有事法制の第一弾は、小泉政権下で成立した。しかし、その準備は、幾代も前の政権からなされていたということを。
これは一例に過ぎないが、個人が個人でなくなることを肯定する流れは、すでに以前から、とっくの昔に始まっていたのだ。
僕達の識閾下で進行していたものが、今回、徐々に姿をあらわしはじめたに過ぎない。
小泉総裁の任期が切れた、または政権が交替したとして。
その流れが継続することは無いと、なぜ、断言できるのだろうか。


僕達の眼前にある現象は、けっして一過性のものなんかではない。
留保や但し書き付きの批判で、太刀打ちできるようなものだとは、僕には到底思えない。


僕のような若僧が、このようなことを言うのは傲慢だとは承知している。
でも、あえて言いたい。


「皆さんのその楽観が、葛藤の中から産み出されたのでないのなら、それは、信頼するに値しないと断言します。」