要請されているもの

微妙に忙しかったせいで、先日のエントリから日にちが開いてしまった。
しかし、忙しい中でも、自分の「無知さ」というものに対する様々な考えが、常に心につきまとっていた。


「知らない」、ということ自体は、決して悪いことではない。それは当然だ。
しかし、困難に直面している人々がいて、「知らない」ということが --- ないしは、無関心でいるということが --- その人々の困難さを、より深めてしまうことにつながっているとするならば、それはやはり、罪深いことなんだ、と僕は感じる。もちろん、そういった現状を知ったとしても、それで事態がただちに改善される訳ではないし、現実の全てを把握できる、把握した上で改善できる、と見なすのは、馬鹿げた英雄気取りに過ぎないだろう。


その上で、僕は思う。
今、僕達に本当に必要なものは何なんだろうか、今、僕達に要請されているものは、一体何なんだろうか、と。


例えば、「障害者自立支援法案が可決すれば、重度の障碍を持つ人ほど負担が重くなる」と聞いたとして、それを自らの真摯な問題として受け取る人は、残念ながら少ないのだろう。例えば、「2005年8月22日までに、少なく見積もっても2万3589人から2万6705人のイラク市民が、アメリカによる占領の直接的な犠牲者となった」と聞いたとしても、その一人一人に、自分の近親者が殺された場合と同じような、深い悲しみを抱く人は稀なのだろう。せいぜい、その数字の「量の大きさ」から、「悪いことだ」と判断する程度に過ぎないのだろう。


僕達の現状に決定的に欠けているものは、想像力と共感なのだ、と、僕には思える。
これは、素朴に過ぎる見方なのかもしれない。しかし、それが無ければ、どんなに詳細なデータも、どんなに精緻な論理も、個別の要素を満たす材料とは、なり得ないのではないだろうか。


昨晩、仕事帰りの交差点で信号を待つ間、道行く人々や、車の流れを眺めながら、僕はこんなことを考えていた。


今、僕の側を通り過ぎた大勢の人達、それに、流れていく車の中にいる人達。
その一人一人に、僕と同じように人生があり、家族がいて、友人がいて、そして、悩みを抱えていたり、何かを期待していたりして、日々過ごしているのだろう。
でも今、僕には、それらがただの風景としてしか写っていない。
これらの光景が、ただの風景としてでは無く、共感に満たされたものとして感じるということは、あり得るのだろうか。
もし、それがあり得るのだとしたら。
それは一体、どのような世界なのだろう、と。


そんなことを考えながら、ここ数日を過ごしていた。


僕がユングに拘ってしまうのも、そういう思いが強いからなのだろう。
想像力が全ての鍵だ、という僕の観念が、僕をユングに惹きつけさせる。