ブログのエントリで、夢を晒すということ

僕はブログ上で夢の記録をつけている。


なぜ、そんなことをしているのかと言えば、それは、夢の記録をつけること、そしてそれを吟味することが、自分自身を理解することに、もっと大袈裟に言えば、人間というものを理解することにつながる、と思っているからだ。
また、ユングについて理解するということも、やはり、夢というものと対決することなしには、為し得ないだろう。


ブログを始める前にも、何度か夢の記録をつけることに挑戦したことがある。しかし、夢を思い出して記述していくということは、想像以上に消耗する作業だった。そして、数日で挫折してしまうのが常だった。公開された場で、個人にとって最大のプライバシーとも言える夢を晒すことには、当然様々な危険が伴うだろう。でも、そのことによって、なんとか習慣づけることが可能となったのだった。


さて、これは僕の夢の記録に限った話ではないけれど、個人の見た夢や幻覚といったものは、他人から見れば、理解しがたい、得体の知れないものだと感じてしまうものなのだろう。僕も自分の夢を客観的に読み返してみて、「合理的な知性から見れば、あまりにもグロテスクで、直視しがたい内容も孕んでいる」と感じることが良くある。また、ちょっとフロイトをかじったような人が読めば、「これは性的なシンボルだ。この人は、きっと欲求不満なんだろう。」などと断定しちゃうんじゃないか、とも考えたりもする(そんな見方は馬鹿げているけれど)。


ただ、ここで一つだけはっきりと言っておきたいことがある。
それは、「他人を判断する場合には、その人の意識的な在り方を見るべきだ、つまり、その人の自覚的な行動において、どのようなことを言っているのか、どのように振る舞っているのか、を見るべきだ」ということだ。その人の無意識の素材が、いかにグロテスクであるように感じられたとしても、その人の意識的・自覚的な言動を貶める材料にはならない、と僕は思う。もちろん、「その人の意識的・自覚的な言動」と言った場合、無意識の内容に対してどのように接しているのか、ということも、その中には含まれるとは思うけれど。




うーん、なんだか自己弁護のような文章になってしまった。。