「自我と無意識の関係」を読む (3)

少し間が開いてしまったが、前回のエントリに引き続き、「第一部 意識におよぼす無意識の諸作用」の「第二章 無意識の同化作用のおこす後続現象」の続きから。

前回のエントリの補足(と言うより、訂正)

本編に入る前に、まずは訂正から。
前回のエントリでは、この章で語られている様々な心理的傾向を、「ユングは控えめに、診察過程の被分析者の傾向として語っている」とした。しかし実際には、その後に続く段の中で、ユングはそれらの傾向を、社会全般の傾向へと敷衍していたのだった。なので、前回の僕の「被分析者の傾向として」という記述は間違いでした。

第二章 無意識の同化作用のおこす後続現象 (2)

ユングは、「神に似ていること」という状態により生じる思い上がりも自己卑下も、共通する点は「自分の限界について確信を持たぬ(P33)」ことだ、としている。つまり、認識が拡大された際に、一方は法外に自己拡大をし、一方は法外に自己を卑小化してしまう。しかしユングは、実際には驕りと自己卑下とは紙一重である、としている。一方の驕りは、認識への確信の無さから生じている。ユングはわかりやすい例として、「狂信家などというものは確信など持っていない(P33)」と述べている。そのために狂信家は、躍起になって賛同者を募る、ということになるのである。一方の自己卑下は、過剰な自己評価から生じている。つまり、彼の持つ「認められていない」という劣等感や、「自分の正当な要求を侵害された」という感覚は、尊大な誇りから生じている。そして、当人はそれに気づかず、周囲だけがそれを味わう羽目となる。


どちらのケースも、人間的な均衡を踏み出してしまっている。そのため、「人間を超えて」しまっている。それが、「神に似ていること」という比喩へとつながっている。ユングは、「神に似ていること」という隠喩を使いたくないのであれば、「心的インフレーション」という用語を用いることを提案したい、としている。「心的インフレーション」とは、要約するならば、自分に属することのない諸内容を、自分のものと見なしてしまっている状態、と言えるだろう。そしてユングは、「心的インフレーション」は、分析の過程によって産み出されるだけではなく、日常生活においても頻繁に起こるものだ、としている。


ユングは、日常における第一のグループの、ごくありきたりのケースとして、自分の仕事や肩書と自分自身とを同一視してしまう、という心理状態をあげている。
個人の地位は、個人に帰属した活動だと言える。しかしそれは同時に、歴史的経緯・社会的な協力などによって生じた、集合的な同意に基づき形成されたものでもある。つまり、それが社会的な位置を確保していられるのも、集合的な同意があるからこそ、と言える。社会的地位と、自分自身とを同一視するということは、言わば、それらの「複合的な社会的因子全体(P35)」と自分自身とを同一視する、ということになる。そのことにより、異常に自己を拡大し、個人の外にしかあり得ない特性を、簒奪することとなる。ユングは、「国家 --- そは朕なり」という言葉を、そのような人々を端的に示すモットーだとしてあげている。


(これで第二章の半分を超えた程度。次回からようやく、本編の核心に入る。続く。