無関心であるということ

あの911総選挙以来(というよりも、その前後から)、濁流のように、様々な出来事が生じている。もちろん全ての出来事が、あの911の選挙をきっかけとしてもたらされた訳ではないのだけれど。なんだか腰を据えて一つのことを考えるということが、とても難しいことのように感じさせるほど、様々な出来事が、奔流のように社会を押し流していると僕には思える。


前回のエントリで、「不公正」ということについて触れた。パキスタン地震チェチェン紛争、また、いわゆる対テロ戦争などから、世界の不公正さということについて、少しだけ考えてみた。しかしそれは、何も海外の出来事に限った話では無い。例えば障害者自立支援法案にまつわる構図などにも、同じような不公正さ、というものを見出すことが出来る。


それらの「不公正」を産み出す源は、一体、なんなんだろうか ---
そう考えた時、そこに見えてくるものは、圧倒的なまでの当時者意識の希薄さ、そして、それに伴う無関心さ、であるように思える。


しかし、神ならぬ人間が、世界の矛盾すべてに関心を抱き、当時者意識を持つ、ということは可能だろうか?
例えば僕が、イラクに関する関心の低さでもって他人を批判したとしても、しかし、世界中に蔓延するその他多くの矛盾に対して、同様の関心を抱いていると胸を張ることは、当然ながら不可能だろう。そして、自身が批判したのと同様に、その無関心さから批判される、また、場合によっては、911の犠牲者のように、ただ単に無関心であったがために憎悪の対象とされる、ということもあり得るのだろう。


このような捉え方は、悪しき相対主義だろうか?


僕は、思う。
無関心である、ということは、誰もが抱えている原罪なのではないか。
そうであるならば、誰しも、その罪の上に立っている。
そして、その罪を通じて、他者とつながっている 。
そのような認識から、始めるしか無いんじゃないか、と。


もちろん、このような捉え方は、あまりに素朴で、感傷的で、主観的で、他者を説得可能なものではないだろう。
この問題に関しては、折りに触れて、繰り返し考えていきたい。