「自我と無意識の関係」を読む (4)

前回に引き続き、「第一部 意識におよぼす無意識の諸作用」の「第二章 無意識の同化作用のおこす後続現象」の続きから。

第二章 無意識の同化作用のおこす後続現象 (3)

地位や仕事といった、集合的な社会的因子と自身とを同一視することによって、心的インフレーションが引き起こされる。しかし、心的インフレーションを引き起こすものは、それら外部の「集合的意識のなかにある非個人的な因子(P39)」ばかりではない。


ユングは例として、精神病を患った錠前師の徒弟のケースをあげている。

彼は、世間はいつでも自分の好きなときにめくることのできる絵本である、というすばらしい考えを思いついたのである。彼によればその証明はごく簡単で、つまり自分がただふりかえりさえすれば、新しい一ページが見えるから、というのであった。(P36)


ユングはこの錠前師徒弟の世界像を、「これは、飾り気の無い原始的な見方によるショーペンハウアー流の「意志と表象としての世界」に他ならない(P36)」としている。つまり、錠前師徒弟の原始的なヴィジョンと、ショーペンハウアーの高度に抽象化された世界観との根底には、共通のモチーフが存在している、とユングは考えた。この錠前師徒弟は、その非個人的なモチーフを前にして、それを意識化することが出来ずに、その病理的傾向を拡大してしまった。そしてそのことにより、この心理的因子に対する認識は、非個人的で原始的・自然発生的な段階のままにとどまっていた。しかし、ショーペンハウアーにおいては、同様の非個人的なモチーフが、集合的意識の上で合意が可能な段階にまで抽象化された。この非個人的なモチーフは、一方では、その力動に抗うことのできなかった人格を解体してしまったが、また一方では、ショーペンハウアーのような天才によって、集合的意識の側の共有財産へと高められたのだった。


これらの例から、無意識の領域の非個人的・超個人的な要素は、死んだ静的な存在などではなく、強く意識の側に働きかける、生きた動的な存在である、とユングは考えた。個人が社会と向き合っているのと同様、個人は、内面にひろがる無意識の領域と向き合っている。地位や肩書といった外部の集合的な因子が、人を惹きつけ、心的インフレーションへと向かわせる力を持つのと同様に、集合的無意識に見出される強大なイメージは、人を惹きつけ、心的インフレーションへと向かわせる。それらの強大なイメージは、「集団的表象(P39)」と呼ばれるもので、政治的なスローガンや、「詩的および宗教的言語の根底にあるものである(P39)」。


錠前師徒弟のような人格解体の結果こそが、(程度の差こそあれ)精神の病なのだ、とユングは定義した。つまり、フロイトなどが個人の外的な経験にその原因を求めるのに対し、ユングは、より集合的な要素との関係性の中に、その原因を認めたのだった。(そしてそれは、必ずしも否定的な意味合いだけでは無く、補償的な意味合いがより強いとしたのは、以前のエントリの内容からも読み取ることができる。)


(これでようやく第二章の後半へと入った。続く。)