t-hirosakaさんへ

id:t-hirosakaさんが、僕の駄文の感想を書いてくださいました。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20051027#1130398756


以下は、その感想の感想です。


僕は本当に、自分の書く文章というものに自信が無くって、それは、自分が大地に根をはっていない、自分の足場というものが確立されていない、という感覚 --- つまり、自分の基盤というものに対して信頼を置くことが出来ない、だから、そこから産み出されてくる文章にも、自信を持つことが出来ない --- そういった感覚に、文章を書く度にとらわれてしまっています。だから、多少なりとも僕の書いた文章に興味を持ってくださったことに対して、実は、とても強く「恥ずかしい」という気持ちが沸き上がってしまったのですが、それと同時に、何かとても励まされたような感謝の気持ちも強く感じていて、そんな相反する感情が、今、僕の中でぐるぐると渦巻いています。(大袈裟ですみません。)


曖昧さ、ということで考えると、「人間の、世界に対する認識」ということを考えてしまいます。世界は当然、人間などが存在しなくても、それ自体として存在しています。でもそれと同時に、僕達の見るこの世界は、僕達の意識化した、僕達の意識に依存した世界、とも言い得ると思っています。その意識化された世界と、意識化未然の世界と。それは分かち難く、常に常に同時に存在している、と言えるでしょう。「曖昧さ」というものを捉えるということは、その、意識化未然の状態というものの積極的な探求と利用という側面において、肯定的に見ることが出来るようにも思えます。でも、そういった「曖昧さ」というものと、「日本的精神構造」といった風に表現される、ある種の幻想とを安易に結びつけてしまうということは、その、意識化未然の状態への退行を志向してしまっているのではないか、と僕は感じるのです。それが、id:t-hirosakaさんが指摘された、河合隼雄の「独断的な本質規定」といったものが孕んでいる問題なのではないか、と感じます。


また、紹介いただきました、河合隼雄に関するエントリも拝見しました。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20050702


ただ、その河合と林道義のお話よりもむしろ、秋山さと子さんの逸話に、僕は強い感銘を受けてしまいました。

ユング心理学は何かを新しく探究する学問ではなく探究する人の心の内側を再発見するための学問だ


この言葉に、僕がユングに拘ってしまう理由の一端が見えた気がします。僕は、とにもかくにも、ユングについて納得するまで理解することが出来なければ、「僕は先に進むことが出来ない」と強く感じていました。しかし、そう感じる理由について、明確にすることが出来ずにいました。ただただ、漠然とそう感じていたのです。でもその感覚は、まさしく「僕自身を理解したい」という志向に基づいていたんだな、と秋山さと子さんの言葉を読んで気が付いたのでした。先にも書いた、「自分自身の基盤の不安定さ」を、自分自身を理解することによって(そして、可能であるなら、それを少なからず人間全般に敷衍することによって)、堅牢にしたいという無意識裡の願望が、僕をユングに拘らせていた大きな要因なのではないか、と感じたのでした。


こういった理由から、僕はしばらくユングについて拘りつづけることになるだろうし、その意味では、しばらくはその狭い領土の中からしか、その外に拡がる世界を見ることが出来ないのではないか、と感じています。しかし、たとえ拡がりを持たない領土であったとしても、掘り下げていくことによって「深み」を持たせることぐらいは出来るのではないか、と期待しているのです。


ユングに対して、様々な批判があることも承知しています。
例えば、河合隼雄林道義のような人々を輩出したことから、ユングの言説自体に本質的な危険性があるのではないか、と疑念を抱く人がいたとしても、何ら不思議ではないと思っています。そして当然、僕自身もそれを検証する必要があるでしょう。


課題は山積していますが、これらの作業を、粘り強く進めていきたいと考えています。
励ましとお心遣い、本当に、ありがとうございました。がんばります。


(「感想の感想」と言いながら、激しく「自分語り」をしてしまいました。)