「自我と無意識の関係」をとりあえず読み進める (5)

前回から激しく時間が経過してしまった。いつまでも日常的な雑務だけにかまけて「人生の作業」をおろそかにするわけにはいかないので、とりあえず進めていこうと思う。

第二章 無意識の同化作用のおこす後続現象 (4)

前回までに読み進めた内容の中でユングは、個人が孤立した存在であるだけでは無く、同時に社会的な存在でもあるのと同様に、人間の心もまた、個別の現象では無く、集合的な現象でもある、ということを論じていた。そして、そのいわれはどこにあるのか?と問いかけた後、ユングはこのように述べている。

それは、どんな人間も高度に分化した頭脳を生まれつき持っていて、その頭脳が豊かな精神的機能の可能性を各人に与えるわけだが、そのような機能を人間は決して個体発生的に獲得したわけでもなければ、発展させたわけでもないからである。人間の頭脳が一様に分化しているのと同じ程度に、頭脳によって可能となった精神的機能もまた集合的であり普遍的である。このような事実から、きわめてかけ離れた民族や人種同士の無意識が実におどろくほど符合するという事実も説明がつく。(P42)


ここで述べられた仮説は、一般的に流布している「集合的無意識」といった言葉へのイメージと異なり、非常に明快でわかりやすいものであるように思える*1。ここで述べられている内容はつまり、人間の頭脳は似通っているから、精神機能もまた似通る、という当り前の事実なのだ。人間の精神機能の分化というものを、学習などの外的な要因のみで説明付けるのでは無く、潜在的な構造そのものに根拠を求めるといった方法は、チョムスキーなどにも通じるものがあるだろう。しかしまた同時に、こういった仮説には、ある種の危険性もつきまとう。その危険性は、次のようなユングの言葉にも見出すことが出来る。

民族あるいは種族、それどころか家族に照応した分化がある限り、「世界普遍的」な集合的心の水準を越えた、人種もしくは種族、あるいは家族に限定された集合的な心も存在する。(P43)


ユングはここで、人種や家族といった集団単位でも、精神機能の分化の傾向を見出すことが出来る、と述べている。このような物言いに対して、胡散臭さと危険な匂いを感じる人は、当然多いだろう(僕もそうだ)。しかし、ここで早計に(ユングに対する)判断を下してはならない。判断を下すには、この後の段でユングが述べていくところを読み解いていかなければ、公正さを欠くだろう。


ユングはこのように続ける。
分析などを通じて無意識の内容を意識化する、という行為によって(これは「社会への適応の過程において」と言い替えてもいいだろう)、人はより集合的になり、その唯一性を弱めていく。つまり、「あの「統計的」に各自が部分的に持ち合わせている平均的な美徳と平均的な悪習の一切(P44)」を身に着けていき、「多くの人々にきわめてよしとされる、世間との類似性が準備されていく(P44)」。そして、そのような類似性は、神経症治療において決定的な役割を演じる時もあるとし、次のように述べている。

このような状態のなかで生まれてはじめて愛情をよびさまし、みずから愛情を感じるのに成功したケース、あるいはまた、先の見通しも立たないのに敢えて飛び込んでいって、その捨身が幸いしてうまい巡り合わせに恵まれたケースのいくつかを私は見てきた。(P44-45)


ここでユングは、社会との類似性を身に付けることによって初めて、社会の中に自分の位置づけを見出すこと出来た人々について触れている。だがユングは「しかし私としては」と続ける。

しかし私としては、このような心的爽快や仕事熱心な人々に照応するケースは、世間とどうもうまくそりが合わないことに悩んでいて、誰が見てもほんとうに治っているとは思えない、と言わざるを得ない。(中略)このような患者の追跡調査をしたとがあるけれども、実を言えば、患者たちはしばしば不適応の症状を示すのである。(P45)


そしてユングは、「正常な、平均的な人たち」や「治癒者の数」といったものではなく、個々の「人間の質」にこそ着目しなければならない、と述べる。

私の研究者としての良心は、数には見向きもしない。人間の質に目が行くのである。自然というものは、まさしく貴族的である。(P45)


ここで「人間の質」というものが、社会への適応の善し悪しといった基準とは関係が無いものとして述べられている、ということに注目したい(それどころかユングは、適応不全をおこしてしまっている人々を「価値ある人間(P45)」と書き、「価値ある人間は十人の凡夫に匹敵する。(P45)」とすら述べているのだ)。「集合的」「平均的」「統計的」といったものに晒されている個人の、「生の唯一性」とでも呼ぶべきものが、ユングの取り扱っている課題であることが、ここに述べられている。


(やたらと引用が多くなってしまった。めげずに続く)

*1:後年の「類心的無意識」や「共時性」といった仮説は、このように明快に同意が得られそうなものではないけれど