「生の分有」ということについての、感傷的で主観的で内向的な

のざりんさんの以下のエントリを読んで以来、様々な考えがぐるぐると、言葉にもならずに浮かんでは消えている。


http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20060111/p5


僕は、"「自らが決めるというあり方を肯定する人としばしば同じ人である」ところの「多様であることを認めようと言う人たち」"という言葉から、今の僕は逃れることができないのだ、と感じている。僕は、僕が無邪気に自明だと考え捉えていたことについて、心から恥ずかしく思う --- なんてことだ、と。このことについて、このことから浮かんできた新しい何かについて、僕は語りたい。しかしそれは、言葉にすらならないまま浮かんでは、消えていくばかりだ。この、言葉にすらなっていないグロテスクな感傷、そんなものなんて書くべきではない、と理性は告げている。でも、躊躇無く吐き出してしまおう。確かに度し難い内容ではあるけれど、それでも僕の足場ではある。


留保の無い生の肯定がある --- 世界は正しい。
そしてこの世界には、人の産み出す悲しみがあり、酷薄がある。喜びがあり、優しさがある。また、自らを語る生がある一方で、自ら意志決定のできない生、自ら語ることのできない生、そしてそのことによって語る生がある。ここに僕は、切り離すことのできない、他者へとわかちがたく投げかけられた感情価を --- 価値や意味を見出す。共時的に想起する布置が、ここにある。否定しようが否定すまいが、直視しようが見ないことにしようが --- それ自体の布置によって、「彼の生」は「私の生」へとわかちがたく織り込まれている。もし、「善き生」というものを世界に置くことができるとするならば --- これらの布置との関わり合いにおいて、それはある。