「自我と無意識の関係」をとりあえず読み進める (6)

前回(http://d.hatena.ne.jp/t_kei/20051211/p1)の続きから。

第二章 無意識の同化作用のおこす後続現象 (5)

ユングは無意識の同化に伴う現象について、さらに掘り下げて述べる。

もしわれわれが無意識を同化することによって、集合的な心を誤って、個人的な心理機能の財産目録のなかに組み入れたりすると、人格の対立的両極への分解なるものが生じてくる。(P46)


集合的な心には、さまざまな対立的な心理要素が含まれている。それは、第二章の冒頭で論じられていたような「誇大妄想 - 劣等感情」のような組合せだけではなく、「善 - 悪」といったような、倫理的な対立も含まれている。

さて、ある人は集合的な美徳を個人的功績のせいにし、ある人は集合的な悪徳を個人の罪に帰してしまう。が、両者ともども誇大と劣等と同じように錯覚である。なぜならば、空想上の美徳も、空想上の悪徳も、集合的な心の中で保ちつづけられて感じられるようになった、あるいは人工的に意識化された道徳的な対立組合せにすぎないからである。(P46)


集合的な美徳や悪徳とは、外的には伝統や社会的通念、組織に共有される価値観といったものに、内的には神話的なイメージや宗教的啓示といったものに基づいてなされる、「これは善い」「これは悪い」といった倫理的判断だと言ってもいいだろう。ユングは、それらは「錯覚である」と言いきっている。なぜなら、それらの集合的な倫理観は、それを扱う当人によって獲得されたわけではなく、そこには葛藤というものが存在しないからである。そのわかりやすい事例として、いわゆる未開人の心理についてユングは触れている。

未開人たちを観察してその徳がきわめて高いのを賞める者もあるかと思えば、一方ではその同じ種族についてきめて悪い印象を受けたと報告する者もいる。個人の分化というものが周知の通りごく初期段階にある未開人にとっては、両方とも真実なのである。なぜなら、未開人の心は本質的に集合的であって、それゆえ大部分は無意識的だからである。(P46)


ユングが1世紀前の人間であることを差し引いても、ここで示されている「未開人」というものがステロタイプであることには留意したい。ここで言われている「未開人」像を理解する上でのわかりやすい例は、ステロタイプネイティブアメリカンの描かれ方、または映画ラストサムライなどで描かれる「古き良き日本人」像などだろう。つまり、一方でその高い「精神性」が描かれ、一方でその「野蛮」が描かれるのである。ここではわかりやすい事例としてそういった「未開人」が挙げられているが、このような事例は当然、現代に生きる我々にも当てはまる。たとえばテレビのワイドショーなどで、罪を犯した人間に対して「そんな人には見えなかったのに」「普通の人でしたよ」といったように語る、近所の人々のインタビューが放映される。そこには、通常の市民生活をおこなう上での「善良さ」と、罪を犯す「悪」とが、一人の人間の中で矛盾なく同居している様を見出すことができる。また、組織的な論理の前に、なんら葛藤することなく犯罪的な行為に手を染めてしまう人間が少なからずいることは、周知の事実と言ってもいいだろう。つまり、組織において「善」とされるものは、その当人にとっても疑うことなく「善」なのである。

心の個人的発展が生じ、その際に理性が対立物の相容れない性格を認めるようになってはじめて、矛盾が持ち上がってくる。このような認識の帰結は抑圧闘争である。人は善良であろうとし、だから悪を抑圧せざるをえぬ。それとともに集合的な心の楽園も結末を迎える。集合的な心の抑圧は、要するに個性の発達のもたらす一個の必然であった。(P46-47)


「個人」の発展に伴い、必然的に集合的な要素との葛藤が生じる。それらの葛藤があってはじめて、「個人」としての認識が形成される。それゆえに、それらの葛藤を経ない倫理観は借り物であり、「錯覚である」とユングは言っているのだ。さてここで、人間が意識の黎明期から「個人」というものを、いかにして獲得していったのかが問題となってくる。それは我々の自己認識について知るためには、避けることができない問題だろう。それに対して、ユングは彼らしい言い方で答える。

個人というものの発達は、魔術的威信の問題である。(P47)


以降において、有名な「ペルソナ」概念が登場する。


(続く)