やさしさ、ということについて

ここしばらく、やさしさ、ということについての、言葉にならない想いがぐるぐると巡っている。やさしさという言葉のその背景にあるもの、その言葉が指し示している背景にひろがる何かについて、僕は知りたいと望んでいる。


しばらく前になるが、「清原三鷹市長! 野宿者支援団体を公共施設から閉め出さないで ! - 夜まわり三鷹 活動日記」というエントリを読んだ。野宿者支援団体の人々が、市のコミュニティセンターの料理講習室を利用して、野宿の人々と共に料理をつくる、という活動をおこなっていた。それに対して、管理運営を市から委託されている自治組織が、その利用を突如拒否した、という問題。この問題は、同じ施設を利用していた、高齢者に給食をおこなっている団体が抗議をおこなったことがその発端となったのだと言う*1。この、高齢者に給食をおこなっている団体の活動について、リンク先の文章からは詳細を知ることはできない。だからこれは想像に過ぎないが、この活動は、いわゆる「老人給食」の活動なのだろう。そしてさらに想像するなら、おそらく彼らの活動は、身寄りの少ない高齢者にとって有難いものなのだろうし、そして何よりも、この活動によって支えられ、温かさを得ている高齢者もいるのだろう。そしてそのことによって、この活動をおこなっている人々もまた、大きな満足感や使命感を得ているのかもしれない。活動の継続において、相当の苦労や困難を抱えているのかもしれない。それでもその、満足感や使命感に支えられて、活動を続けているのかもしれない。公共施設を利用しているのだから、営利目的の活動ではないのだろうと推測もすることもできる*2。そして、衛生面への過剰なまでの反応も、高齢者への想いや気遣いから生まれたものなのだ、と言うこともできるのかもしれない。


ところで、先にあげたリンク先を読む限りでは、この排除の際に、非衛生であると言う事実・衛生上に問題があるとするような具体的な根拠は、一切示されなかったようだ。そして実際に、衛生上の問題は今までに発生はしていなかった。だから、「非衛生である」とする根拠なんて、どこにも存在しなかったのだ、と言い切ってしまっても良いのだろう。そして、不特定多数が使用する施設を利用し続けていたにもかかわらず、野宿者支援団体が利用しているとわかるまでは、そのような衛生面についての主張はなされていなかったようだから、つまり、この件の本質的な問題の所在は、「衛生」にあるのではない、と言える。それらの事実からは、この問題を産み出した根底には、野宿の人々が野宿を余儀なくされるに至った構造と、共通の構造が存在するのだとも予感させられる。その共通の構造には、様々な側面が存在する。それにはたとえば、経済的な側面や、空間の占有の問題なども含まれてくるだろう。しかし、この件においてより大きな衝撃を感じさせるのは、高齢者のために働く人々が、一方では野宿の人々を排斥した、ということだ。


この事実について、このように考えることもできるのかもしれない。「彼らが高齢者に示していたやさしさは、欺瞞である」、と。一方では高齢者に給食し、思いやりを示す。一方では野宿の人々を穢れたものと見做し、排斥する。ここにおいては、やさしさとはせいぜい、選別されて発揮されるものに過ぎない。共同体の一員である高齢者にはやさしくあるが、同時に、野宿の人々に対しては共同体の一員と見做すことすらしない。その、選別されたやさしさは、「わたしたち」と「やつら」との、境界の措定に根ざしている。「やつら」を穢れたものと見做すことによって、「わたしたち」は共同体への帰属意識をより確かなものにし、その内においては、やさしくあることができる。そこには、普遍的な差別の構造が存在すると言えるだろう。だから、彼らのそのやさしさは本質的に欺瞞であり、嘘っぱちに過ぎない。それどころか、差別に居直り、助長するための装置でしかないのだ、、、


また、このように考えることもできるだろう。「彼らの選別されたやさしさとは、社会の問題である」、と。つまり、差別とはまさしく社会の関係性の現われであり、われわれは、その社会の関係性の中で自身を同定し、そのプロセスを内面化していく循環の中にいる。また同時に、社会の環境要因はその構成員の選択肢を狭め、無意識裡にその行動をも制限する。だから、本質的な問題の所在は社会にあるのであって、個々人に責を帰結し糾弾することは本質的では無い、、、


このふたつの視点は、相互に補完し合う、と言える。一方の視点は、現実におこなわれている差別に対して、欺瞞に対して、抗議の声を、直接的な怒りの表明をあげることの必要性を、われわれに示してくれる。そして一方の視点は、その問題の背景には根深いものがあり、その本質的な解決は個々人に責を求めるだけではなし得ないということを、また、その背景に翻弄されている個々人の苦しみの存在すらも示唆してくれる。しかし同時に、それらの視点は十全なものではないようにも思える。


高齢者にやさしさを示し、一方で野宿の人々を排斥する、それはたしかに欺瞞だと言う他ない。だが、そこに示されたやさしさには、一片の真実も存在しなかったのだと、全ては欺瞞だったのだと、誰が言えるのだろうか。たとえばあなたが誰かに友愛の情を抱き、やさしくあった時。その時に感じたぬくもりは、たとえあなたが欺瞞に満ちた生を過ごしていたとしても、霧散するわけではない。そこには、相対化され得ない真実が含まれている。もちろんわれわれが示すやさしさと呼ばれるものは、往々にして、薄気味悪い不愉快さを内包している。そこからは、ほのかに欺瞞の臭いが立ち込めてもいる。にも関わらず、われわれは、その中にかけがえのない一瞬を得る時もあるし、何よりも、われわれはそれを求めている。


差別にしてもやさしさにしても、それらは、関係性の中に立ち現れてくる。常に、個人において完結するようなことはなく、絶えずささやかれ、紡ぎ合わされていく。たとえ切断しようとしても、切断をしようとしたというその事実によって、すでにわれわれは関係している。そのようなつながりの中に、われわれはいる。そしてだからこそ、それらの関係性は社会の問題であると同時に、個人の問題でもある。われわれは良く、このような言葉を耳にする。「すべての事柄は政治的なものである」、と。しかし同時に、このようにも言われなければならない。「すべての事柄は個人に、個別の生に根ざしたものである」、と。


われわれの心的過程が、そして無意識裡の思惟が、本質的に人との関係性に仮託されて立ち現れてくる、という事実は注目に値する。われわれの心は他者の似姿と、分かち難く結び付けられている。たとえば、夢の中で、あなたは誰と語りあっているのだろうか。独我論者は、誰に向かってその論を唱えているのだろう。他者のうちに苦悩を見たとき、果たしてそれは、彼の苦悩なのだろうか、それとも、あなたの苦悩なのだろうか --- 社会の関係性と、そのような内面の関係性との間に、われわれは照応を見出す。


たとえ欺瞞に満ちた生を送っていたとしても、そこに立ち現れてくるやさしさに、相対化でき得ない真実が含まれているのだとするならば、それはまた同時に欺瞞や差別、その罪責もまた、拭い去ることのできない真実を含んだものとして存するということを、示唆している。「右手のやっていることを左手は知らない」、われわれは今、ぶつ切りとなった社会の内にいるが、同時にまた自らも、ぶつぶつと、解離してしまった生の過程の中にいる。


先日、光市母子殺害事件に関して、2審の無期懲役判決を破棄するという最高裁の判断が示された。その事について、ネット上でも様々な意見が表明されているようだ。そして、マスコミなどで噴出している、素朴な応報感情の合唱に対しての、冷静で適切な異議を述べる意見も、少なからず出てきている。ただそこで忘れてはならないのは、「やつを吊るせ」と合唱している人々でさえもまた、家族が、近親者が、被害者に、もしくは加害者になったとしたならば、苦悩の淵に沈むであろう隣人たちである、という事実ではないだろうか。

人々はそれぞれ家にかえったが、イエスはオリブ山に行かれた。
次の朝早くまた宮に行かれると、人々が皆あつまって来たので、坐って教えておられた。すると聖書学者とパリサイ人とが、姦淫の現行犯を押えられた女をつれてきた。みんなの真中に立たせて、イエスに言う、「先生、この女は姦淫の現場を押えられたのです。モーセは律法で、このような女を石で打ち殺すように命じていますが、あなたはなんと言われますか。」こう言ったのは、イエスを試して、訴え出る口実を見つけるためであった。イエスは身をかがめて、黙って指で地の上に何か書いておられた。
しかし彼らがしつこく尋ねていると、身を起こして言われた、「あなた達の中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石をなげつけよ。」そしてまた身をかがめて、地の上に何か書いておられた。これを聞くと、彼らは皆良心に責められ、老人を始めとして、ひとりびとり出ていって、最後にただイエスと、真中に立ったままの女とが残った。
エスは身を起こして女に言われた、「女の人、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罰しなかったのか。」
「主よ、だれも」と女がこたえた。イエスが言われた、「わたしも罰しない。おかえり。今からはもう罪を犯さないように。」


(「ヨハネ福音書」 七・五八〜八・一一・塚本虎二訳)


「あなた達の中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石をなげつけよ」、そして、「わたしも罰しない」 --- 。


突然このような引用を持ち出したからといって、罪責についての社会運用上の扱いについて、相対的な主張をおこないたい、というわけではない。ただ、われわれの心から紡ぎ出されたこのような象徴表現の中に、先に述べたわれわれの解離の、罪責の、やさしさの、一つの和解の形を見出すことができるのだと強調しておきたい。そして、近似の象徴はこれに限らず、あらゆる宗教表現、哲学、文学表現などの中にもまた、見出すことができる。その事実は、われわれの内において、それらの象徴表現が普遍性を持ち、また、共感を示すに足る重要性をも持っている、ということを示唆している。もちろん現代に生きるわれわれは、そのような象徴表現を、素朴にそのままのものとして、社会普遍のものとして取り扱うわけにはいかない。しかしわれわれは今、先にも述べたように、社会の様々な問題を個人の責としてではなく、社会全体の問題として考察しようとする姿勢をも育みつつある。それはいまだ不十分なものであるとはいえ、われわれの心に、それらの象徴表現を代替する何かが、普遍性を伴ってきざしつつあるのだ、ということをも示している。


この象徴表現に伴う感情を、やさしさ、と呼ぶのは素朴に過ぎるのかもしれない。ただいずれにしても、このようには言えるだろう --- 以前僕は、「暴力」というものに関する考察は欠かすことができない、と書いた。同様に、根源的なものとしての「やさしさ」というものへの考察もまた、欠かすことはできないのだ、と。そしてこの事実は、僕に今、深い感慨をもたらしつつある。

*1:この問題のその後の一応の顛末は、http://d.hatena.ne.jp/yomawari-mitaka/20060602 及び http://d.hatena.ne.jp/yomawari-mitaka/20060611 参照

*2:行政からの補助金などもあるかもしれないが、大した額ではないだろう