光市事件―置き去りにされたもの

先の光市事件差し戻し審の判決は国民一般の感覚に沿うものであり、同時に被害者遺族の感情に寄り添うものであったと一般には言われている。実際、本村氏は判決に対して「納得している」とも語っているし、また、主にテレビからなるマスコミ報道での取り扱いもネット上の多くの声も、この判決によって正義が実現された、被害者遺族の無念が晴らされた、としているものが多数を占めている。

しかし多くの人々がそのように溜飲を下げ、そしてこの事件を記憶の中から風化させていくのとは裏腹に、本村氏の人生はこれからも続いていく。本村氏にとって妻子が殺されたという事実は厳然として残り、そしてこれから僕たちがこの事件のことを忘れようとも、彼は、その事実を背負って生きていかなければならない。

今回の事件について「社会が被害者遺族という存在を発見する契機となった」と評する意見もある。確かにそうなのかもしれない。しかし、犯罪に巻き込まれて傷つき打ちひしがれている人々は、何も裁判の時にだけ立ち現れる、そのような消費の対象では決してない。たとえ裁判の判決によってその当事者も含めた多くの人々の応報感情が満たされようとも、彼に起こった事実と、その生はそのままで残っていく。

そして、そのような犯罪被害者の多くは本村氏のような「ものを言う被害者遺族」だけではない。そのほとんどは本村氏のように注目を集めることもなく、そしてこれからの本村氏がそうであるかもしれないように、孤独に、自身を切り裂いた事実と向き合わなければならない状況に置かれている。

しかし先の高裁判決とそれを取り巻く状況は、そのような犯罪被害者の問題をただいたずらに、応報感情を満たすことへとすり替えてしまった。そしてその中では、検察側主張と被害者側の主張が同一であるかのように喧伝され、検察側主張の様々な矛盾は不問に付された。本村氏の主張を実現することが正義であると見做され、そして検察側主張や司法の判断がそれを代弁するかのように錯覚されたことで、それらもまた同様に詳細に検討されることもなく正義であると見做されることとなった。「被害者遺族の感情に寄り添う」ことが、まるで本村氏が苦しみの中で吐き出した言葉を、そのままに実現することであるかのように語られていった。それが本当に彼のような犯罪被害者に対して、社会が誠実に向き合った結果と言えるのかという点は、ついに論じられることがなかった。犯罪被害者に社会がいかに向き合うのかという問題、そして、彼らの傷ついた生は、そのままで置き去りにされた。*1

そして、先の判決によって置き去りにされたものはそれだけではない。

犯人の父親は、妻子への暴力が日常茶飯事だった。団地住まいであるため泣き叫ぶ声などから近所中に知られていた。幼い息子の目の前でその母親を執拗に殴り、怯える息子も見かねて止めに入ると今度は息子をぶちのめしたうえ風呂場へ引きずって行き水の入った浴槽に頭を突っ込み押さえつけるなど壮絶を極めた。母親の前に立ちはだかってかばったために、ぶん殴られて失神したこともあった。
耐えかねた母親は自殺し、首を吊って脱力し糞尿を垂れ流してぶら下がる母親の無惨な姿を見ながら11歳の息子は泣きじゃくっていた。そのあたりから普段の言動に異常さが表れてきて、近所で「あの子はおかしい」「かわいそうだ」「父親があれでは」というような噂がささやかれていたところ最悪の事態となり、こうなる前になんとかしてやれなかったかと悔やまれていることが地元紙で報じられたことがある。
こんな状態だから、少年はいつもおどおどしていて、学校ではいじめに遭い、あいかわらず父親の暴力は続き、高校生のときには鼓膜を破られた。最後の暴力は、あの忌まわしい事件を起こしてしまう前々日であった。つまり、逮捕されてやっと父親の虐待から解放されたのだ。
こんな事情があるのになんで最初から裁判で問題としなかったか。そう疑問に思う人たちから、最初ついた弁護士は責められた。けれども、被告が未成年者であるため親の意向に従わないといけなかった。だから言いたくても言えなかった。言えば被害者に知られて親の責任ということで損害賠償請求される。それを父親は恐れたというのだからひどい話である。弁護団を途中で離れた今枝弁護士も、前の弁護士がいいかげんだと最初は思っていたが、あとからこの事情を知って怒れなくなったとインタビューで言っていたほどだ。


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誤解を怖れずに言うならば、彼もまた、虐待という犯罪の被害者だった。しかし彼の凄惨としか言いようがないこの生い立ちも、近所の無関心も、そしてこのような虐待が放置され、なんら社会としての対応がなかった、社会としての対策が機能していなかったという事実も、「被害者遺族の感情を考慮せよ」の大合唱の前にすべて置き去りにされてしまった。多くの人が彼の主張を聞いて「荒唐無稽だ」と憤った。しかし彼の生育過程と、もしかしたら本当にそのような「荒唐無稽」な判断しかできなかったのかもしれないという可能性はついに顧みられることがなかった。そして今、僕たちの社会の合意の結果として、彼はくびり殺されようとしている。

すでに多くの人が指摘しているように、最高裁が自判せず高裁判決を差し戻した時点で、この裁判の結果は――つまり死刑という判決は――既定の路線として定まっていたと言われている。このような司法のいびつさは、内閣が最高裁判所長官を指名し、そして最高裁下級裁判所の裁判官指名権を持っている…といった、縦型社会となることが必然と言える司法の世界の構造的な問題から来ていると言われている。

そのような意味では、この判決を出した判事がたとえ憲法76条第3項*2の良心よりも最高裁の敷いたレールの上を走ることを選択したのだとしても、それはただ単に、彼は彼の住む社会のルールに従っただけに過ぎないのだと強弁することもできてしまうのかもしれない。

このようなアイヒマン的誠実さは、何もこの判事に限った話ではない。たとえばこの社会では待遇に不満があったとしても、労働争議をおこそうと考える人は少ない。多くの人はむしろそのような状況は、自身の適応の努力によって克服されるべきものだと考えてしまう。日々、社会に適応することに汲々とし、それをライフハックと称する。その生の内実ではなく、単に今の社会への適応の度合いをもって、下流だ、勝ち組だ、負け組だ、マッチョだと呼称する。個々人の良心や判断ではなくその適応の度合いが求められる今の社会では、むしろ、アイヒマン的であることが求められていると言っても過言ではない。

橋下大阪府知事が先に人件費削減案を発表した際、最も市民からの批判が多かったのは、警察官の削減計画に対してなのだという。その事実は、多くの人々が自身の生活をあまりにも脆く儚いものだと感じ、そして同時に、この社会から護られたいと願っているのだということを示している。生き残るために社会に依存し、そして同調する。自身の生活を脆く儚いものだと感じ、不安が他の何にも勝るために身動きがとれずに、その依存と同調とを高めていく。

犯罪被害者の傷、虐待を受けた被告の傷。それらの傷が置き去りにされてしまったように、この社会に暮らす一人一人の生、その傷もまた同様に置き去りにされてしまっているのではないだろうか。アイヒマン的誠実さが求められるこの社会で、一人一人の生のどれほどの傷が置き去りにされているのだろう。適応に汲々とするその中で、どれほどの怒りやわだかまりが置き去りにされているというのだろうか。そして、そのわだかまりを抱えた生の中で、それ以上に傷つきたくないがために、既成事実を追認し、より社会に依存し、そして同調するばかりなのだとしたら、そんな社会、そんな生を、一体誰が喜ぶというのだろう。そして自身のそのような状況を直視できずに、ただいたずらに、社会が示す悪を叩くことでそのわだかまりを晴らすのだとしたら、そこに正義や公正さなどありはしない。そのような生は、社会は、ただ、悲しいだけではないのか。


最後に、このエントリを書いている最中、ユングの次の一文を思い出したので引用したい。

全体としての社会の倫理性がその社会の大きさに反比例するということは、周知の事実である。個体が集まれば集まるほど、ますます個人的要素は消され、それとともに、もっぱら個人の道徳感情と、そのために不可欠な自由にもとづいている倫理性も消滅するからだ。したがって、個々人は、たったひとりで行動しているときよりも、社会の中にいるときのほうが、ある意味で、無意識的により劣った人間である。というのも、彼は社会によって担われており、その分だけその個人的な責任を免除されているからだ。巨大な社会は、(……)その道徳性と知性においては、愚鈍で乱暴な一頭の巨獣に等しい。(……)さて、社会が個々の成員のうちに、集合的な資質を強調すると、それとともに社会は、あらゆる平凡さを賞揚し、安直かつ無責任にただもう植物的に生きるのにおあつらえむきのものばかりを賞賛することになる。個人的なものが壁際に押しのけられるのは避けられない。(……)今日の人間は、道徳上の集団的な理想に多かれ少なかれ自分を合わせているため、自らの心に鬱積したものを抱えこんでいる。(……)そして、彼がその環境に正常に「順応して」いさえすれば、その社会のいかなる極悪非道も、彼の心をかきみだしたりはしないだろう。同胞の大多数が、彼らの社会組織の高い倫理性を信じて疑わない限り。


自我と無意識 (レグルス文庫), P60-61 *3

今この社会では、既成事実が既成事実のままで、ただただ追認されていくという状況が蔓延している。ガソリン税の値上げはまるで天災でも起きているかのように報道され、そして買いだめといった個人の努力で対処することばかりが強調され、抗議の声が組織されることもない。光市の事件と同様に二名が殺されるという痛ましい出来事であったイージス艦愛宕の事件は、社会から広範な怒りを得ることもなく風化し、その風化したという既成事実だけが残るばかりとなった。米兵が中学生少女を暴行するというやり切れない事件は、米軍が非難されるや否や、光市の事件とは逆に、むしろ被害者少女の落ち度をあげつらう声が巻き起こり、沖縄が置かれている状況の本質的な問題は既成事実のまま温存されることとなった。

社会に依存し護られることを望むのだから、社会体制や既成事実への抗議は自身の生活を破壊するものとして憚られる。その一方で厳罰化を望む体制の意向に親和的な本村氏のような被害者遺族の怒りは、誰しもが同調できるものとして歓迎された。その怒りの結果としての厳罰化は、自分たちの手で正義が実現されたかのような、そんな錯覚をおぼえることができた。しかし、本当の意味で犯罪被害者に寄り添うとはどういうことなのかという視点や、被告がなぜあのような主張をしたのかという視点はすっかり置き去りにされた。そして、ただただ獣のように荒れ狂う、怒りの結果のみが既成事実として残った。

*1:ところでネット上では、先の高裁判決を受けた本村氏の言葉に「深い感銘を受けた」と語る人々を多く見かける。しかしそのような人々に対して、僕は強い憤りとともにこのように言いたい。あなた方は、人が他人の死を望み、そしてそれが達成されるという事実の重みをどのように考えているのだろうか。彼は今まで、十分に苦しみ続けてきたのではないか。そのうえなお、あなた方は人殺しの責まで彼に負わせようというのか。結局のところ、あなた方は自分の感情のことばかりで、彼のことなどどうでも良いのではないか。

*2:「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」

*3:ちなみにこの論考は、1928年に出版されている。あえて理由は書かないが、この事実は強調しておきたい。