擬似科学批判をめぐって

id:demianさんやid:Apemanさんからいただいたご批判について。

http://d.hatena.ne.jp/demian/20080514/p1
「疑似科学と平和運動」について再び - Apeman’s diary


特定の専門領域に従事する人もしくは特定の専門領域に強い関心を抱く人が、その良心から、もしくは自身や先人達の積み重ねに対する責任感から、その専門性を発揮し、社会的な出来事に対して警句を発したり批判をおこなおうと考えることは――少し端折って書くと――自然なことであり、その誠実さのあらわれなのだとさえ言える。そして同時にたとえば僕のような半可通が、そのような専門家の意見に依拠して自身の見解を構築したとしても、それはある意味では当然のことなのであって、それ自体にはなんら批判される要素はないと言える。だからいわゆる擬似科学というものに対して、科学の領域にある人々が批判をおこなうということを僕は原則として問題だとは思わないし、専門領域外の人間がそのような批判をもとに自身の見解を構築したとしても、当然何も問題のないことだと考える。

また、「他人が傷つくような批判をするな」だとか、そのようなことを言うつもりもまったくない。批判というものは対象の認識の変更を迫るものであるわけだから、当然それは、必然的に暴力的であり得る。だからことさら批判の暴力性を語るという行為は、自身の問題を正視できない不誠実さから来るものだ、とすら思っている。

demianさんは

いわゆる「ニセ科学批判批判」をしている人の文章を読むと、こういうのを書いている人って切実に「これはまずいのではないか」と思うような体験がないのか、単に寛容な人なのか、なんなんだろうという。人によっては自分の周りの人たちは水からの伝言のことを話していてもそんなに真に受けてないし、何を騒いでるの?といったことを書いていたりもしますし。

と書いている。もしかしたらこれは、僕に対して書いているのかもしれない。けれども僕は、別に「ニセ科学批判批判」をしたいわけではない。また、擬似科学を巡る諸象について、実は切実に「これはまずいのではないか」と考えていたりもする。そして、とても重い問題なのだとさえ思ってもいる。それではなぜ僕は、demianさんのエントリに対して批判的なブクマコメントを書いたのか*1、そのことについて説明していきたい。


人は生きていく中で、自覚するにせよ無自覚であるにせよ、苦悩を抱えて生きていかざるを得ない。しかしその苦悩というものは実に個人的で、そして主観的なものでもある。その個人的な苦悩の体験に対して、社会の集合知が適切な回答を与えてくれるという保証は、実はどこにもない。特に今という時代においては、集合知は蓋然性があり、平均的であるものにあまりにも安易に限られている。だから平均的である限りにおいてはそれなりの回答が与えられ、不安も抱かず生きていくことができるけれど、同時に、そこから逸脱するような苦悩は「自己責任」の一言で片付けられもしてしまう。一回限りの個人的な例外は見捨てられ埋もれてしまう。そんな時代に、僕たちは生きている。

しかし同時に、この社会におけるあまりにも細分化しブラックボックス化した専門性の体系は、多くの人にとって、それぞれの領域において専門家がいるのだという錯覚を与えもする。そしてそれは、専門性を偽装することで、権威ある言葉を語ることが可能であるということをも意味している。

このような時代背景の中において、人が、何がしかの回答を得て安堵する、回答を与える存在を権威と見做すということは、当然あり得べきことなのだと言える。もちろん苦悩が背景にあったとしても、それ自体がその行為や言説そのものに対する免罪符になるとは必ずしも限らないし、むしろそれは批判されなければならないだろう。しかし同時に、それに対する批判が人間の苦悩そのものを隠蔽する方向で進むのであれば、それは、おかしなことだと言わざるを得ない。

demianさんは一番最初のエントリでこのように書いている。

これはもしや単なる「癒しの場」ではないかと(ぎゃー)。
(……)
なんというかエコ系のロハスでスピリチュアルな人の日記を読んだりすると議論以前に反知性主義なものを感じるくらいですので、まあ、無理でしょうねえ。


http://d.hatena.ne.jp/demian/20080513/p2

流通している及第点的な見解に身を置いて――つまりは知的に安全な立ち位置から――切断操作をおこない、そして対象の属性を固定するという展開を、僕はあまり趣味の良いものだとは考えない*2。そしてその人々の言説を批判するのではなく、そしてその人そのものを見ることもなく、その人そのものを侮辱するという行為を、僕は率直に言って軽蔑する。この demianさんが書いている状況は、先に書いた苦悩そのものであるように僕には思える。そうであるならば、これは果たして単に揶揄や嘲笑の対象として消費されるべき対象だろうか。そして、果たして批判されるべきはそのような "人そのもの" なのだろうか。それともそうではなく、そのような人々につけ入る言説であったり、そのからくりであったり、それらを産み出す社会背景なのだろうか。それは、言うまでもないことであるように僕には思える。*3

また、「切断操作をおこない、そして対象の属性を固定する」ということは、同時に対象に対する恣意的な空想を許容するということでもある。僕にはhttp://d.hatena.ne.jp/demian/20080513/p2で展開されている言葉が、実に論理性を欠いた、対象に対する恣意的な想像と投影とによって成り立っているようにしか見えない。なぜ――僕自身のレベルを棚上げして書くが――居酒屋談義レベルのコメントが、他者を罵倒し得る権威にまで昇格できるというのだろうか。そして、demianさんや Apemanさんからいただいたご批判について言えば、demianさんは僕も知らなかった僕の「心の声」まで聞いてくださったし、また、Apemanさんは勝手に文脈まで読んでくださったうえに、歴史修正主義者にまで比してくださったわけだけど、それって、多くの人が常々批判している藁人形論法と、いったい何が違うというのだろうか。

結局のところ問題は「擬似科学批判」かそうでないか、といった立ち位置の問題ではない。主体的な知的誠実さの問題なのであって、「ニセ科学」といった言葉やその立ち位置が、免罪符たり得るとは到底思えない。

*1:と言っても、字数の関係から言い尽くすことができずに、誤解されないように撤回した部分が今回問題とされたわけですが。もちろん凡そ小一時間程度はネット上に晒してしまったのだから、その播いた種の結果責任は取らなければならないでしょうね。

*2:が、僕も良くやってしまいがちであるということは、正直に告白します。

*3:もちろん擬似科学批判をおこなっている人々の全てが、このような論理展開をしているとは言いません。