前トリアージ的選別とその延長線上に

今更感が強く漂うけど、「はてな」からはじまった議論について。
僕はid:toledさんが書いたエントリ「あのー、それ、普通にかわいそうなんですがーー「トリアージ」という自己欺瞞 - (元)登校拒否系」で提示されている問題意識に深く賛同するんだけれど、このエントリのコメント欄やブクマコメント*1、そしてトラックバックされてきたエントリなどを見ていると、なんだか良くわからない批判が殺到している。

でもid:toledさんが言っていることは、それほど難しいことじゃあない*2。たとえば、多くの人にとってわかりやすいであろう卑近な事例をあげてみるとすれば、以下のような後期高齢者医療制度に関する読売新聞社説がある。

新制度は、あいまいなまま融通しあってきた高齢者医療費の会計を独立させ、都道府県単位の組織に運営責任を持たせた。従来の市町村単位より広域化したことで、保険財政は安定する。所得の多い高齢者には、応分の負担を求める仕組みも盛り込まれた。現役世代には、自分の保険料のうち、どれだけ高齢者医療にあてられたかも明示される。負担のルールを明確にしたことが、高齢者に冷たい制度と受け取られているようだ。
(……)
新制度の保険料算定式は複雑で理解するのは難しい。分かりやすく工夫した説明がないために、負担が増えた人は不満と不信を募らせている。低所得者や障害者向けに、自治体が独自に実施していた減免措置が新制度移行を機に打ち切られ、困惑している人がいる。年金からの保険料天引きを、これまでの負担に上乗せして徴収されているという誤解も根強い。説明を尽くし、必要な救済策を講じることが大事だ。


http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20080512-OYT1T00813.htm

生きていくためのリスクが高い世代――つまりはコストの高い世代――だけを選別して施策を実施するという、まさしく「資源の有限性の制約のもとでの再配分」の問題がここには存在する。この社説では、あくまでも問題は細かい運用と説明の不十分さにあるのであって、この施策そのものではないとしている。しかし、2006年のこの制度の成立時を思い返してもらいたい。この施策に対する社会的な議論は、果たして為されただろうか。また、この施策に対する明確な説明はあったのだろうか。そもそも本当に配分すべき資源は枯渇しているのだろうか。そして特定の世代のみを選別する、その根拠付けは――当然だが、同じ世代と言ってもその生活の有り様や経済状況は様々であるはずだ――一体どこにあるというのだろうか。このような施策が社会的な意思決定の過程のないまま、そしてその根拠も示されないまま、恣意的に策定され実施されてしまう。そのような社会のあり方を自明とし、それへの反発は短絡的で情緒的なものであるとする、そんな嫌らしさがこの社説にはある。また同時に、この施策そのものにも同様の嫌らしさが感じられる。

このような事例は何も後期高齢者医療制度に限らず、枚挙にいとまがない。さらに卑近でわかりやすい例をあげるなら、「新型インフルエンザワクチン接種に関するガイドライン (PDF)」があるだろう*3。ここではワクチン摂取の優先順位を規定していて、一見するとその優先順位はもっともらしく、妥当に見える。しかしここにも有限な資源配分に関する社会的議論の不在という問題――つまりは、特定の利害関係者のみによる意思決定――が同様に存在している。そしてそのような意志決定過程の問題は、危機的状況下になってはじめて露呈することになるだろう。

トリアージ」は極限状況下にのみ適用されるべき概念であり、それを拡張して使用することは愚かしいことであるとの指摘は、既に多くの人からなされている。しかしたとえば関東大震災にしても阪神大震災にしても、その被害は木造家屋の密集地帯――つまりは比較的富裕ではない層――に集中していたという事実が存在する*4。そしてこの議論の元となったエントリでは四川大地震について触れているが、その四川大地震においても類似の問題が指摘されている。

つまりは「トリアージ」は極限状況下においてのみ適用されるべき概念だと言えるけれど、平時においてもすでに、極限状況下での選別は先取りされているのだ。たとえば経済的弱者のような、現在の社会において社会的意思決定の過程から漏れている者は、前トリアージ的状況下においても既に、トリアージされるべき立場に置かれている。そしてその選択肢の量において、比喩的な意味を越えてあらかじめ選別されているのだと言える。これは「トリアージ」が、極限状況下においてより多くの人を生かすための方法論であるにも関わらず*5、平時における選別の理論に顛倒して適用されるのと裏表の関係なのだ。そしてその「前トリアージ的選別」の延長線上には、たとえば野宿生活者のように、明日の生活の保証も無いような、常態化した極限状況下に置かれている人々が存在する。彼らは「資源の有限性の制約のもとでの再配分」においては非存在として扱われる。なぜなら彼らは、その再配分を決定する過程からあらかじめ排除されているからだ*6

(本当は「かわいそう」という言葉についても触れたかったけれど、眠いのでここで一旦筆を置く。後で追記するかもしれません。 → 一部の注釈を追記しました。)

*1:http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/toled/20080523/p1

*2:と言いつつ、僕が全然誤読していたらごめんなさい。。

*3:ちなみに新型インフルエンザが流行した場合、日本では最大で210万人の死亡者が出るとの推計も存在する。ただしその数値の妥当性は僕には判断しかねるし、むしろ逆にこのような「脅威」は悪用されかねないという気もするので、そのような推計が存在するということを示すにとどめる。

*4:NHKスペシャル

*5:その概念自体の倫理的な妥当性はとりあえず置いておく。

*6:たとえばhttp://bund.jp/modules/wordpress/index.php?p=338