トリアージと選別

トリアージとは何の関係もない。/格差問題とトリアージを絡めること自体に政治的思想性がある。「トリアージ」を政治利用したのが元記事の問題点。故にこの記事の問題点でもある。


はてなブックマーク - z0racのブックマーク / 2008年5月26日

原語の「選別」と云う意味ならまぁ政治的にも思えるが、なら「選別」と云えばいいだけでわざわざ「トリアージ」などと云う馴染みのない言葉を使う必要はない。余計な誤解を与えるだけである。

また、医療技術の「トリアージ」ならば、その前提となる目的から切り離して語るのは全くの間違いである。設定された目的から合目的的・合理的に導き出された解を、その目的から切り離してしまえば意味不明になるだけ。

トリアージとは、「無条件により多くの命を救うべきである」という命題に対して合理的に考え出された解である。その合理性に間違いがあるのならそれを指摘すればよい。また、別の最適解があると云うのならそれを示せばよい。それが正しければ誰もが喜んで受け入れるだろう。「合理的」とはそういうことである。

また、前提命題に政治性があると云うのであれば、それを批判すべきであろう。前提が変われば当然解も変わる。前提が変わったからと云ってトリアージが間違っているわけではない。

さて、逆質問で申し訳ないが、トリアージの何処に政治性があるのですか?

私が読んだ範囲では、「トリアージ」を政治的文脈で語る方はおられても、どの方も「トリアージ」の何処が政治なのか説明されていない。


トリアージの何処に政治性を見出しうるか - z0racの日記


前トリアージ的選別とその延長線上に - 諸悪莫作」に対して、id:z0racさんから上記のブコメトラックバックをいただいた。と言っても、トラックバックの方は僕ではなくて、id:CrowClawさんとのやり取りを望んでいるようだ。でも、もともとの発端は僕のエントリにあるのだから、僕の方からも応答をすることにする。

さてまずは、id:z0racさんと僕の間にある、奇妙な論点の食い違いから明らかにしておきたい。id:z0racさんは『格差問題とトリアージを絡めること自体に政治的思想性がある』と述べている。どうやらid:z0racさんは、「トリアージ」という言葉に自分が信じている価値内容以外のものが付加されたり、それ以外の内容で適用されたりすることを――特に「政治性」を連想させる文脈に置かれることを――許しがたいことだと感じているようだ(違っていたら指摘をお願いします)。でも、ちょっと待って欲しい。だってこの状況を少し下品な譬えで言えば、こんな感じになるのだから。

「うんこを食べるのは体に良い。だからうんこを食べるべき」と主張する人がいた。それに対して「うんこを食べたら体に悪いし、そもそもうんこは食べるものじゃないんだよ」と指摘する人がいた。するとさらに、それに対して「こともあろうにうんこを体に絡めて話すことは許しがたい」と言い出す人が現れた――。

もしも「うんこを食べよう」という人に対して、「うんこは食べるものじゃない」と答えたら、それはうんこを批判したり、うんこを自分の主張のために利用したことになるのだろうか――なるわけがない。そういう意味では、僕はうんこ(トリアージ)の批判なんてしていないし、利用するつもりも全くない。

また、「うんこを食べる」ことは危険だけれど、また同時にうんこは体から排泄されるものだから、うんこを語る際には体という対象は不可分の存在なのだと言える。にも関わらず、「うんこを体に絡めて話す」ことを忌避する主張があったのだとしたら、それは、ちょっと奇妙な話だということになる。

さて、ここで話をうんこから本題に戻す。…うんこうんこ言ってごめんなさい。

人と人とが関わるとき、各々にそれぞれの価値観や損得勘定がある以上、そこには必ず、価値基準の相違や利害の衝突が生じるのものなのだと言える。政治とは広義にはそのような関係性の中での力学を指すものであって、議事堂の中や霞ヶ関のどこかでのみおこなわれるような、そんなものだけを指す概念では決してない。

id:z0racさんは

原語の「選別」と云う意味ならまぁ政治的にも思えるが、なら「選別」と云えばいいだけでわざわざ「トリアージ」などと云う馴染みのない言葉を使う必要はない

と言っている。しかし、ここには顛倒が存在する。これはむしろ、逆なのではないだろうか。

なぜ「トリアージ」という概念は、曖昧で当たり障りのないカタカナ言葉で呼ばれているのだろう。なぜ本来の意味である「選別」とは呼ばれていないのだろうか。「トリアージ」は「選別」を意味するのだから、直截に「選別」と呼ぶべきなのに、話者はそれができない。このような語法こそ、まさしく優れて「政治的」なものなのだと言える。そのような曖昧な呼称にすることによって、そこに発生するはずの価値基準や利害の衝突を、「トリアージ」は迂回する機能を獲得しているのだ。

トリアージ」はどのように言い繕うとも、その本質は「命の選別」に他ならない。通常であれば手厚い医療を受けるべき状態であっても、極限状況下では見捨てざるを得ない。その選別に「合理性」を付加することで機械的な処理を可能とする、それが「トリアージ」なのだと言える。(このように言うと「トリアージ」を批判しているように聞こえるかもしれないが、そうではない。ただ単に、取り繕うのはやめた方が良い、と言っているのだ。)

通常の状況下であれば助かったかもしれない人――もちろんそれはほんの数パーセント程度に「過ぎない」と言われるかもしれないが――も含めて選別する、それが「トリアージ」であるのだから、そこに利害や倫理上の衝突は間違いなく存在する。しかし僕たちは災害などの極限状況下に限り、本当に忸怩たる思いを持ちつつも、それを許容する。いや、許容はしなくともそれを選択せざるを得ない。しかしその状況とその判断自体もまた多くの人の利害の中から産み出されたものであるのだから、「政治的」であることは言うまでもない。つまり「トリアージ」とは、まさしく政治の産物なのだ。

さて、先に述べたように「トリアージ」という言葉はカタカナ言葉として呼称され、曖昧な、ぼかした概念として拡張の余地を持たされている。本来は極限状況下のみでかろうじて許容されていたはずの「選別」が、その曖昧さを伴って、拡大解釈されていく。

東京消防庁では平成19年6月1日から、119番通報を受け出場した救急現場おいて、明らかに緊急性が認められない場合には、救急隊はご自身での医療機関受診(自己通院)をお願いしております。ご本人の同意が得られれば救急隊は直ちに次の緊急出動に備えますので、真に救急車が必要な緊急性の高い傷病者のため、ご理解とご協力をお願いいたします。


東京消防庁<安全・安心情報><救急アドバイス><救急搬送トリアージについて>

こうして「トリアージ」は実に便利な言葉になった。経営上の失策や政治政策上の選別的な施策も、すべて「トリアージである」と言えば合理的な装いを持たせることができる、そんな錯覚をする人間まで現れるようになったのだ。多くの人が批判しているのは、まさしくそのような拡大解釈に他ならない。だから僕としては、id:z0racさんは憤りの矛先を間違えているのではないか、と感じてしまう。


さてこれらを踏まえた上で、「トリアージ」は「政治」と無縁と言えるだろうか。僕は、そうは思わない。


最後に。id:z0racさんはその内実を示すこと無く「合理的」や「最適解」といった言葉を使っているけど、そのような言葉の使用について、次のような憤りをおぼえる人もいるのだということを指摘しておきたい。

トリアージがどうの、最適解がどうのって話なんだけど、正直言って胸糞悪い。自分は研究室で社会なんてものを扱うにはずっとちゃちな数式の最適解を求める研究をしていてその程度のものの最適解を求めるだけでも七転八倒していたのだけれど、こういう思考停止をしたかのようにあっさり最適解だの、最適化だのをしれっと言うのには怒りを感じる。(……)
モノやシステムというものには何がしかの目的がある。例えば自動車の場合だと、早く移動したいという目的をかなえるためのものであって、何かとトレードオフに走る機能を無くすといったことはありえない。今回のトリアージの件でもそうだ。本来の目的は人を助けるであって、トリアージはあくまでも災害のような緊急事態に対して、現在の医療・社会システムが敗北した結果、トリアージを行うのであって、それは戦略的な行為でも最適化の結果でもなく敗北への次善策でしかない。(……)
本来いろいろな条件、目的で成り立つものをぶん投げて、まるでトリアージをすればそれは最適化がなされており、戦略的な行動であるなんていうのはひどく粗雑であり、ひどく非学問的でさえある


2008-05-27

この文章には、心の底から賛同する。