これは「だからどうした」という程度の与太話です。どうか、無視してください。

気がつくと、前回の更新から半年以上が経ってしまった。自分の中にある恥じ入る気持ちを消し去ることができなくて、そしてブログを書く気にもなれなくて、いつの間にか、そんなにも時間が経ってしまっていたのだった。

直接のきっかけは、去年の6月頃にあった西成の「暴動」だった。

そのことについて何かを書かなくては、何かを表明しなくてはと焦って --- そしてその過程で、自分の中の恥じ入る気持ちに気がついて、僕は文章を書くことができなくなってしまっていた。

僕は恥ずかしかった。自分のブログで何かを吐きだして、そのことで多少は異議申し立てができたと満足してしまうことが恥ずかしかった。ブログを書いたその直後に、おいしく飯を食べ、そしてふとんの中で快適にねむる、そんな自分を想像して心の底から恥ずかしかった。それは、なんてお気軽なのだろうか。ブログでどんなに威勢のよいことを吐きだそうとも、状況自体はなにもかわらず、そして、その状況の中でこそ僕はのんきに過ごすことができるのだ。

最近もまた、同じような気持ちに囚われ続けている。正直、村上春樹なんてどうでもいいじゃないか、と心の底から思う。そのような話題は、ガザの人々のおかれている状況に比べてあまりにも軽く、あまりにも軽薄で、あまりにも不釣り合いなものなのであって、そんなことに関わりあっている暇があるなら、もっと彼らのためにやらなければならないことがあるのではないか、村上春樹のような個人にではなく、この日本という社会集団に対して、もっと真摯に訴えかけ、そしてその姿勢をこそ問うべきなのではないか。村上春樹がガス抜きのターゲットになってしまう、それは本当に情けなくて、そして恥ずかしいことなのではないのか ---。


結局のところ、僕という人間は傲慢なのだろう、と思う。まるで子供のように自分の中の衝動と自身の現実とのミスマッチに戸惑い、そしてその投影の結果、他者の務めにまでお節介にも、無責任な批判を押し付けようとする*1

だから、僕は自分自身に課さなくてはならない。自分の衝動に責任を持ち、そして地に足をつけて、いくばくかでもそれをこの世界に着床させるという営みを、覚悟を決めて歩むということを。

*1:だから、この文章から批判らしきものを感じたとしても、それは矛盾だらけで破綻しています。それは、タイトルにもあるように無視されるべきものです。