自戒

自身の言動を振り返ってみた時、ふと、ユングの次の一文を思い返すことがある。
ユングは、知識の増大や気づきによって時としてもたらされる二つの態度について、次のように書いている*1

[知見の増大によってもたらされた洞察は]それまで意識していなかった多くのことを、彼に示すのがふつうである。当然彼は、そのような認識をもって周囲をながめ、そうすることによって、以前見ることのできなかった多くのことを見る(あるいは、見たと信じこむ)。その認識が自分にとって助けとなったからには、他者にも有用なはずだと、つい思いこみたくなる。そうして彼は、善意かなにかのつもりだろうが、ややもすれば不遜になって、他人からは歓迎されなくなる。彼は、たいていの扉を開けることのできる、ひょっとしたら、すべての扉でも開けることのできる鍵を所有しているのだという気持になるのである。*2

[一方で、]得られる洞察は、いくぶん苦痛であることが多く、人が以前に影の面をなおざりにしていたならば(ふつうにはそうなのだが)、それだけいっそう苦痛である。だからなかには、新たに得られた洞察を非常に思い煩い、思い煩うあまり影の側面をもっているのは自分たちだけではないのだということを忘れてしまう人たちもいる。彼らはあまりにも意気消沈し、自分のことすべてに疑いをもって、何もかも間違っていると思いこんでしまう。(…)一方では楽観主義の結果、傲慢になり、他方では悲観主義のあまり極度に不安になり、小心になる。(…)一方での思いあがりと他方での小心は、ともに限度が守られにくいという不確かさを共有している。*3

両者はともに、あまりに小さく、あまりに大きい。(…)彼らは両方とも、一方はこちらに、他方はあちらにと人間としての均衡をふみこえているからには「超人間的」なものであり、したがって比喩的にいえば「神に似て」いるのである。もしこの比喩を用いたくないというのであれば、私は代わりに自我肥大という言葉を提案したい。*4


知識の増大や思惟の深化というものは時として、自身の善が補強されたという感覚であったり、または逆に自身の悪に直面させられた、という感覚を与えるものでもある。僕もご多分に漏れず往々にして、他者に対していきりたって拳を振り上げ、また一方で、意気消沈の中へと耽溺してしまう。もちろんそれらは決して意味のないことだとか、価値のないことだとか言うことはできない。しかし同時に、今までそういった時に果たして、どこまで自身の衝動であったり、状況に対して自覚的であったのだろうか、とも思う。その自覚が無ければ、どのような行為も、衝動や状況に対して受動的で主体性のない、ただただ、それらに押し流され、均衡をふみこえるばかりのものになってしまう。そして自身の均衡を欠いているのだから、自身と言動とが分裂した、そんな世界に生きることになってしまうだろう。

僕は今まで、何事に対しても結論を出すことが重要だと、どこかで思っていた。しかしそれは間違っていたのだと、今でははっきりと言える。少し矛盾した言い回しになってしまうけれど、結論をだそうとだすまいと、結局のところ常に結論をだしているし、常に選択をしているし、常に決断をしている。だから重要なことは、自分が今どのような状況に身を置き、どのような関係性の中にいて、どのような衝動を抱え、何を考え、そしてどのような決断をしているのか。それを見ることなのであって、それを伴わない結論は、どこか非個人的で、どこか反射的で、どこか鵺的で、一貫性を欠き、そしてなにより、それは弱いものになるだろう。

うまく言えないんだけど、そんなことをつらつらと考えている。

*1:以下はすべてisbn:4476012205。出版社がちょっとアレですが、気にしないでください。。ちなみに[]で囲んだ箇所は引用者による補足です。

*2:p41

*3:p41-42

*4:p43-44