「民族主義」

このエントリはid:mojimojiさんの「http://www.mojimoji.org/blog/nationalism2」への応答となります。


僕がmojimojiさんの一連のエントリを読んでいて最も違和感を抱いた点は、「民族主義」という言葉の使われ方だった。それがどのような違和感であったのかを、2つの点から書いていきたい。


まず第1に、この議論の発端となった在日コミュニティを取り巻く非対称性について。

たとえば、この「日本」の社会には様々な制度上の不公正や抑圧的な仕組みが存在する。そしてそれらの不公正が論じられるとき、それは、一般的には制度設計や普遍原則上の問題として語られる。ところがこの社会で「朝鮮総連の抑圧」といったものが話題になったとき、それは単に組織の在り様としての問題としてではなく、突然「民族主義」といったカテゴライズが登場し、そのような文脈の中で語られてしまう。

またたとえば、日本の学校では日本語教育がなされているが、それは、この社会を生きていくうえで必要な、基礎的な読み書きを学ぶものであり、それを学ぶことは自明なものであるとみなされている。ところが、在日コミュニティが朝鮮語の教育をおこなっているということがこの日本の社会で語られるときには、そこには突如として「民族主義」という文脈が浮上してきてしまう。

「日本人」のまわりを取り巻く状況は自明で普遍原則に従うものだとみなされて、彼らの営みのみが「民族主義」だとカテゴライズされる。それは同時に、そのカテゴライズの対象を「普遍原則に則していない存在」だとみなしていることをも意味している。だから彼らに対して、「抱えている抑圧的な問題を普遍的な原則に基づいて解決すべきだ」というお説教をする人まで出てきてしまう。つまり、「民族主義」というカテゴライズは抵抗や統合を希求する側が必ずしも主体的におこなうものだけではないのだとも言える。

そのカテゴライズをどの立ち位置にいる人間が語っているのか。それによって、カテゴライズは蔑視や暴力として作用する。その言葉をいったい「誰」が「誰に向かって」語っているのか、それがまず問われなくてはならないのに、問題は普遍的な原則の問題へと偽装されてしまう。このような問題が語られるときのこういった非対称性が、mojimojiさんの文章からは抜け落ちているように僕には感じられる。


そして、第2に、多様性の尊重という側面について。

以前僕は、ムハンマドの風刺画の問題について次のようなエントリを書いた。


風刺画の欺瞞 - 諸悪莫作
「被抑圧側の問題」について - 諸悪莫作
大峰山と風刺画と - 諸悪莫作


今読み返すと、顔から火が出そうになるくらい稚拙で恥ずかしい文章だけど、基本的な考え方はこれらの文章を書いた3年前からそれほど変わっていない気がする。

でも同時に、「これはちょっと違うな」、と感じてしまう部分もある。それは特に「「被抑圧側の問題」について - 諸悪莫作」で書いた

つまりある種のナショナリズムの発露は、現実にある抑圧へのカウンターであり、より排他的な状況がその前景にあるのだと言える


といった語り方だ。

この内容そのものが間違っているというわけではないけれど、抑圧に対するカウンター「だから」肯定されるべきだ、もしくは回復されるべきものだといった発想は、ちょっと違うのではないか、と最近思うようになってきた。そのような発想は、時として人間という存在を侮辱した発想にもなりかねない。抵抗があろうがあるまいが、人や集団が選択した営みは、原則として敬意をもって扱われるべきものだと言えるからだ。

mojimojiさんは「民族主義」を次のように定義している。

自らのアイデンティティの基盤として文化や言葉や歴史に依拠することそれ自体ではなく、ある文化や言葉や歴史に依拠することを「そうあるべきこと」として提示しようとする発想


でもこれは、そんなに簡単に割り切れるものなのだろうか。人が一定数寄り添い集団を形成したとき、そこにはその集団の歴史や経緯にともなって、固有の友愛の表現であったり、固有の倫理であったり、固有の規範であったりがうまれてくる。ある社会集団では抑圧的に見える規範も、他方の社会集団では親密さの表現としてみなされることもあるだろう。

一人の人間が生きていくということは、それらの関係性の中で自分が形成されていく、ということでもある。人が何かに依拠して自身をアイデンティファイしているとき、たとえ表象的にはそれが浅く狭い、卑小なものに見えたとしても、そのような多様な背景を抱えている。たとえそれが他人から見て奇異に見えたとしても、その人が産まれ、生きてきて、その中で様々な関係性を紡いできた、その集積でもあるのだ。そして危うい言い方かもしれないけれど、それは、独創性や創造性の源ともなり得る。

人のそのような背景と、それに依拠し「自分たちのあるべき姿」を想像する感覚は、簡単に切り分けることが可能なものではない。簡単に切り分けられる、と思っている人は、実際にはその観念自体が『人のそのような背景と、それに依拠し「自分たちのあるべき姿」を想像する感覚』に、つまり自身の生に基づいているということを見失っているのではないだろうか。もしくは、実際には自明性の中に生きてきて、それを問う必要に迫られることがなかっただけではないのだろうか。

だから、誰かが何かに依拠して「そうであるべき」といった主張をしているように見えたのだとしても、それを安易に(たとえば「民族主義」といった)カテゴライズを与え棄却してしまうということは、僕にはとても暴力的なことであるように思える。

ある人が抱く規範や観念が他の人にとって抑圧的に働くこともあるだろう。特定の社会集団の規範が別の社会集団にとって抑圧的に作用することもあるだろう。しかしそれらは、何が相互に許容でき、そして許容できないのか、もしくはどのように解消されていくべきなのか、同意形成の営みの中で、相互に確定し、そして解体されていくべきものではないだろうか。そしてそのような前提を持つことが、民主的な社会を基礎づけるものとなるのではないだろうか。僕はそう思うのです。(もちろん本当の意味でそのような営みがおこなわれるための前提として、第1の論点であげたような非対称性が僕たちの中で真に反省され、解体されるという過程が伴わなければならないということは言うまでもありません。)


…以上です。これでうまく応答できているのかは自信がありません。それに、僕の中にmojimojiさんの文章を過剰に読み込んでしまっている部分もあるような気がする。でも、取り急ぎ感じたままに、自分の中にあるものを未整理なまま取り出してみました。ご批判があれば、甘んじて受け入れます。


最後に、この件に関係なさそうで関係がある…ような気もする文章を2つ、紹介します。ものすごく勉強になります。
「断定と飛躍」、リベラリズム、相対主義〜自明性への問い - C am p 4   β version
ナショナリズムと人種主義――B・アンダーソン『想像の共同体』より - やねごんの日記


追記
コメント欄でswan_slabさんから自薦いただいた文章を紹介します。

マイノリティの人権という考え方 - C am p 4   β version

僕は「同意形成の営み」なんてぼかして書いてしまいましたが、このリンク先のコメント欄を読んで、それを具体化して語るには全然勉強が足りない、もっと勉強をしてもっと考えて、具体的に説得力を持つ内容を語れるようにならなければ、と思いました。