「望ましい皇族」というフィクション

このエントリはid:sukezaさんの「IDコールへのお返事 - empty island」への応答です。


sukezaさん、もしもsukezaさんが次のような人生を歩むことになったらとしたら、それは、幸せなことでしょうか。

好きなように発言をしてはならない。自分の感情をそのままに表現することは許されない。もちろん車を好きなように購入することなんてできない。自分の意志で旅行には行けない。当然、京都に行ってユニオン・エクスタシーの座り込みを見物することなんてできない*1。選挙権も持っていない。決められた公務だけを、淡々とこなし続けなければならない。たとえ本当はそうでなかったとしても、人格者であるかのように常に振る舞い続けなければならない。生活上、当たり前だと思われているありとあらゆる権利が剥奪された、憲法で保証されているはずの基本的人権すら認められていない、そんな生活。

hituzinosanpoさんが「天皇を あがめてみせるのは ひきょーだ。だって、天皇制っていうのは ドレイ制度じゃないか。天皇制の主体は、いったい どこにあるのだ。 - hituziのブログじゃがー」でおっしゃっているように、天皇制とは特権的でありながら*2、同時に、ある意味では奴隷制のようなものだと言えます。生まれで人を規定するという意味では、カースト的だ、と言うこともできるかもしれません。

sukezaさんが「望ましい皇族」と言う時、その先にいるはずの個人は、たとえば明仁さん個人は、けっして見えてはきません。なぜなら、彼は制度を逸脱して振る舞うことが許されてはいないからです。そこに見えてくるのは個人ではなく、あくまでも制度と社会の願望の投影によってつくりだされた、フィクショナルな存在なのです。天皇という物語です。

sukezaさんは「望ましい皇族であり続ける限り」とおっしゃいましたが、実際には彼らが主体的に「望ましい皇族」像から逸脱した生き方を選択することは許されてはいません。彼らのそのような生は、法律上の規定を超えて、彼らがどのように育てられ、どのような制度によって生活が構成され、そしてどのように社会からの願望を受けているのか、そういった様々な要素によって規定されているのです。そのようにして「望ましい皇族」像を生きさせられる、それが天皇制という制度です。

日本国憲法は前文のあと、次の第一章 第一条から始まります。

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く


僕はこんなものに同意した覚えはありませんが、なぜかあらかじめ同意したことになっています。このように天皇という存在は、この社会において、所与のものとして存在しています*3

この第一章がある限り、この日本という社会とはこのようなものだと言えるでしょう ――― 人間を「象徴」として扱うというグロテスクな行為に、なんら疑問を抱かない社会。生まれによって人が規定されることに、そしてそれが制度的に支えられているということに、なんら疑問を抱かない社会。

sukezaさんは「天皇制の批判は決してタブーではないと思います」「廃止を含めた議論や批判もある程度行われています」とおっしゃいましたが、本当にそうでしょうか。

たとえばテレビの生放送で、明仁さんにタメ口をきいたコメンテーターがいたとしたら、彼はどうなるでしょうか。もしくは、天皇制廃止に言及したとしたら。そのような発言の自由は、確かに法によって保証されています。しかし実際には、そのような発言は誰もしないでしょう。なぜなら、物心両面にわたる猛烈なバッシングにさらされ、社会的に抹殺されることを誰もが知っているからです。天皇制に対する発言がもとで物理的な暴力にさらされ、亡くなった人さえも大勢いるということは、少し調べるだけでもわかると思います*4

そしてそれは個人だけではなく、それを報道する大手メディアも同様です。彼らはけっして天皇制の根幹にかかわるような批判はおこなわないでしょう。大手メディアの場合、単にバッシングにさらされたりスポンサーを失うから、ということだけではなく、そのような批判は各種官公庁からの便宜や、記者クラブなどの、彼らの持つ特権的地位を失うことをも意味しているからです。そして実際、大手メディアの中には天皇の呼称であったり、敬語の使い方であったりを規定したマニュアルが存在しているし、それを逸脱するような報道がなされるということはないのです。

この社会では、法で保障された自由の前に、委縮や自粛といったものが存在しています。天皇制批判があったとしても、それはせいぜい独立系メディアや部数の少ない出版物、そしてここのような場末のブログだけです。その影響力は残念ながら、今は微々たるものと言えるでしょう。

このようにして、所与のものとしての天皇制は維持されています。彼らが「望ましい皇族」だから敬意を集めているのではなく、そのようなものとしてあらかじめ存在しているのです。敬意は、人間明仁に対して集められているのではなく、天皇という物語に対して集められているのです。明仁さんなんて、誰も見ちゃいない。

だから僕は「望ましい皇族」なんて錯覚なんだと書きました。実際、人間をそんなものとして扱う制度、社会なんて、くっだらねぇ、吐き気がするぜ、って思いませんか。そんなもの、ぶっつぶしてしまった方がいいと思いませんか。

*1:車や京都の話題はsukezaさんの前エントリを読んで加えました。気に障ったらごめんなさい。

*2:たとえば皇族の生活は莫大な税金で維持されていて、彼らは生まれながらにして衣食住に困ることもないし、高度な教育を受けることも保証されています。彼らには国籍という概念もないわけで、それは特別永住資格どころの話じゃないですね。最近、「在日特権」とかいう謎の都市伝説が一部で話題になっていますが、それを信じる人々が「皇族は特権的だ!許せない!」って叫ばないのはとても不思議なことです。(いや、本当は不思議じゃないんだけど)

*3:この「総意」という言葉については、コメント欄で引用した金森徳次郎の答弁も参照してください。(この注は4月16日に追記しました。)また、辺見庸いまここに在ることの恥」も参照のこと。(ふと思い出したので4月17日に追記。)

*4:もちろん、天皇の名のもとに死んでいった人間の数は、そんなものじゃない。そのことへの反省があるのなら、そもそも天皇制なんて即座に廃止するべきなのです。