911総選挙にあたって

衆議院が解散した前後から、まるでそれに引き摺られるかのように、僕の心は何やらざわめいて、安定を欠くようになってしまった。僕は、自分の原点に戻る必要性を強く感じて、そして、ユングの著作を手に取った。


現在と未来―ユングの文明論 (平凡社ライブラリー)

現在と未来―ユングの文明論 (平凡社ライブラリー)


この本には、ユングが文明について論じた幾編かの文章が集められている。
その中の「現代史に寄せて」は、第一次大戦終結後から第二次大戦終結までの間に書かれた論文や講演内容を、彼自身の手でまとめたものとなっている。


改めて読み直す中で、今直面している状況に対する、彼の警句とも言える文章の数々に触れることができた。そして、僕自身がいかに彼に影響を受けていたのか、そして、それに対していかに無自覚であったのかを、再発見したのだった。


ユングは「破局のあとで」という、第二次大戦終結後に発表された一編の冒頭で、「集団的罪責」という心理的現象について触れている。「ドイツが犯した罪」との、彼自身を含めた多くの人々の内的な一体感や、共同責任の心理について告白した後*1、このように綴っている。

 この言葉の心理学的な用法を法的・道徳的な解釈と混同してはならない。心理学的な罪の概念とは、ある主観的な罪の感情(ないし罪の確信)、あるいは客観的な罪の想定(ないしは罪の分有)という非合理な事実を指していう。後者に属する例を挙げれば、身内の犯罪によって名誉を傷つけられた不幸な家族の一員である場合がそれである。この場合言うまでもなくその人は、法律的にも道義的にも何ら責任はない。

罪そのものは法律的にも道義的にも知的にも、法律違反者に限ることができる。それに対して心理的現象のほうは、場所や人間的環境を越えて拡がる。

 心理的な集団的罪責などというものは、黒白混同の予断であり不正な断罪であると批難されるかもしれない。まさにそのとおりである。そしてまさにそのことが集団的罪責というものの非合理な本質にほかならない。それは正不正を問わない。それは償われざる犯罪の現場から立ちのぼる暗雲である。

集団的罪責の問題は単なる集団的偏見を越えてもっと広く、容易ならぬ様相を呈してくることがやがて明らかになるだろう。
 人間はだれしも自分の心の領域に、かたつむりの殻にでも住むように、他人から隔絶されて住んでいるわけではない。同様に、そうである以上一個の犯罪も、われわれの意識にそう映じがちなように単独に、孤立した事実として、それだけ切り離すことのできる心的事実として起こるわけでは決してない。


彼は、ドイツに起こった道徳的退廃が、他の国でも起こらないなどとなぜ言えるのだろうか、という疑問を呈している。

かかる退廃を招くにはしかるべき条件がなければならない。まずなによりも、都会に集中し、工業化され、一面的な発達を強いられて、その大地から根こそぎにされた大衆というものの大量発生がある。これら大衆は健全なさまざまの本能を失い、自己保存の本能すらなくしてしまった。すなわち国家にかけられる期待が大きくなればなるほど、個人の自己保存の本能は失われていくのである。悪い兆候と言うほかない。国家に期待するとは、おのれを恃むかわりにすべて他者(すなわち国家)を頼りとすることである。だれでも他人に頼りがちだが、それは誤った安心感から来ている。一万人もの他人を当てにするなぞは、空気にもたれようとするにひとしい。その頼りなさに気づかないだけの話である。国家に寄せる期待が大きくなることは決して好ましい傾向とは言えない。それは国民が羊の群れをなして、ただもう羊飼いが緑の牧場に連れていってくれるのを待つようになる道でしかない。やがて羊飼いの杖は鉄の鞭となり、羊飼いは狼となるであろう。たった一人の誇大妄想的な精神病質者が「わたしが責任をもつ」と言ったとき、全ドイツが安堵の吐息をつくさまは、とても落ち着いて傍観していられる図ではなかった。


翻って、現代の日本に生きる僕達はどうであろうか。


ユングが語るような総括を、僕達日本人は、極めて例外的な個人を除き、個々の問題として考えることはなかった。敗戦後、「一億総懺悔」といったような言葉によって、一人一人の人間に根ざした内省の機会は失われていった。
「償われざる犯罪の現場から立ちのぼる暗雲」は、僕達に影のように付きまとい続けたが、ついには意識化されることのないまま、周辺諸国や、特定のマイノリティに投影されるに到った。


そして今、僕達は、小泉純一郎という人物の語る「わかりやすく勇ましい言葉」に心踊らされて、再び国家に白紙委任を与えようとしている。*2社会が抱える様々な問題は不問にふされ、争点は郵政民営化というキャッチフレーズに矮小化されてしまった。そしてそれは、まるで善と悪との対決であるかのように演出されている。


ユングは語る。

外部のどんな改革も、自分自身と正しく対決していない人間の手によるのでは、何の役にも立たないのだ。このことを人はいつも忘れてしまう。身辺をめぐるあれこれのかかわりに夢中になって、自身の心情と良心を試すのをおろそかにするからである。デマゴーグは例外なくこの人間的な弱味を利用して、外部のうまくいっていない事柄に目を向けさせようと、あらんかぎりの叫び声を張りあげる。だがなによりも決定的に整合を欠いているのは人間自体なのである。


今こそ、僕達の多くが本当に望んでいたことを思い出そう。
「将来に不安を抱くことなく、安心して暮らせること。」「得られるサービスや負担が、公正であること。」
各種世論調査からは、そのような傾向がはっきりと見えてくる。*3


郵政民営化に伴う勇ましい言葉は、確かに僕達に、ある種のカタルシスを与えてくれるかもしれない。だがそのようなカタルシスは、今僕達が社会に感じている不公正感や先行き不安の解消の、保証とはならない。


今僕達がやるべきことは、「僕達はどのような社会を望んでいたか」を、一人一人の人間が、冷静に再発見するということではないだろうか。そして、声を大にして叫んでいる人々が、本当にそれに寄与するおこないをしてきたのか、これからしようとしているのか。それを見極めることではないだろうか。


蛇足となるが、ここで僕は、ある事実を指摘しておきたい。それは、小泉政権の4年間で、約14万もの人々が自死しているという事実である。この事態は、決して無視できるものではないと、敢えて強調する。


最後に。

合理主義的な見地に立てば、まず組織や立法といった善意の方策によって何ほどかの成果は挙げられそうに見える。実際にはしかし、国家の理念を変革するのはただ、個人の意識の変革あるのみである。まず個人から、ことは始まるのだ。


自分自身に対する信頼と、誠実さ。ただ、そこから始めるしかない。
それを信じて、もう大きなものに依りかかるのは、やめにしよう。特定の個人を英雄に仕立てあげたって、彼は、誰かの人生を、代わりに満たしてくれたりはしないのだから。

*1:おそらく、こういった彼自身の道徳的誠実さが曲解され、後の「ナチズムに加担した」「ナチスを賛美した」といった中傷につながったのだろう。

*2:これが、杞憂であることを祈る。

*3:ユングを引用しながら、世論調査を掲げるのは、馬鹿げた道化の所業ではあるけど