影との戦い

先日も引用した「現在と未来―ユングの文明論 (平凡社ライブラリー)」の、「影との戦い」という一編から。


ユングは、ドイツに起こった悲劇に関して、意識の一面性や偏り・機能の不全などを、無意識が補おうとする「補償」と呼ばれる心理機能について触れたあと、このように語っている。

群集本能の激発は無意識の補償的な動きの兆候でありました。このような動きが出てきたのは、民衆の意識状態が人間存在の自然法則にそぐわなくなったからです。工業化のおかげで人口の大部分は根なしの浮動層となって、大都市に集中しました。この新しい存在様式---群集心理で動き、市場や賃金の変動に左右されるという存在様式が、不確かで保障の無い、暗示に弱い個人を生み出したのです。彼はその生活が企業の役員会や上司たちに依存していることを知っており、彼らが主として経済的な利害で動くと、当たっているかいないかはともかく、考えています。彼はいかにまじめに働こうと、彼の力の及ぶべくもない経済的な変動があれば、いつでもその犠牲に供せられるだろうということも知ったのです。

 個人というものの無力感は、というよりむしろ非在感は、こうしてそれまでは知らずにいた力への渇望の爆発によって補償されたのです。それは無力なるものの反乱であり、"持たざるもの"の飽くなき貪欲でした。このような廻り道を通って無意識は人におのれを意識させようとするのです。不幸なことに個人の意識的精神のなかには、無意識の反論が意識にまで達したときに、それを理解して意識に統合することを人にうながすような価値基準がありませんでした。


この「影との戦い」は、1946年のBBC放送での講演がもととなっている。60年前に発表された内容ではあるが、現在の僕達にとっても、この警句は傾聴に値するのではないだろうか。


現在の日本において、「個人の無力感・非在感」は、解消されるどころか、それはむしろ強まる傾向にある。*1
そして、そのような事態に対する無意識の補償を、意識の側が意識化することが出来ない時、悪魔的な状況が人を---場合によっては集団を---飲み込むと、ユングは指摘している。


その上で、彼はこう続けている。

心理学者は、精神と生命の担い手としての個人を固く信じています。社会も国家も、個人の精神状況のいかんによってその質の高下が決まるのです。国家、社会は、個人をもって形成されており、要するに個人が組織されるその仕方にすぎません。これは明白な事実である。


昨今の情勢を鑑みて。
今、僕達は、今後数十年間の、個人と社会との関係を決定づける分岐点にいるのではないだろうか。そしてそれは、郵政民営化などの問題に、矮小化されるべきでは、決してない。


再びユングの言葉から。

真のデモクラシーは人性というものをあるがままに考慮に入れ、自国の境界の内部において必要な葛藤を許容する、高度に心理学的な制度にほかなりません。


社会の議論が一面的となり、多様な意見を排除する方向に動いたり、大勢に反する見解を冷笑に附すようになったとしたなら。それは、あまりにも危険な兆候ではないだろうか。

*1:ちょっと連想するだけでも、自らを「透明な存在」と言った少年Aや、昨今の集団自殺の流行、ニートと呼ばれる社会層の増加など