「自我と無意識の関係」を読む (1)

先日のエントリで書いたように、「自我と無意識の関係」を読み進め、その内容を咀嚼して、まとめていこうと考えている。なるべくそのままの引用はせず、僕自身の理解の中から出てきた言葉で記述する方針。そのため、以下の内容は、あくまでも僕自身の理解に過ぎないということを、あらかじめ了承いただきたい。


まずは、「第一部 意識におよぼす無意識の諸作用」から。

第一章 個人的無意識と集合的無意識


フロイトにとって無意識とは、抑圧により生じるものであり、教育によって抑え付けられた人格的要素で構成されたものであった。
それに対しユングは、無意識とは、意識の閾値に届くことのない一切の心的素材であるとし、個人的存在の限度がすなわち無意識の限度であるという見解に対し、反対の立場をとった。個人の過去の経験を洗い出すことによって心の財産目録をつくりだすことはできない、抑圧を止めれば無意識が消えてなくなるなどということは無いとして、フロイトの見解を批判している。


ユングは自らの見解を提示するために、一人の女性患者の事例を紹介している。
その女性患者は父親コンプレックスによるノイローゼに悩まされており、治療の過程で医師(ユング)に対する転移が生じていた。つまり、医師自身が患者の葛藤の対象となってしまったのである。


そのような困難な状況に直面して、ユングは患者の夢に着目することを決めた。
夢とは恣意性の及ばない心的活動であり、心の自然的所産である。心理現象を含む生命現象全般は、単なる因果的な経過だけではない、未来志向的な、合目的的な要素を含む事象であると言える。そのため、そこから客観的な諸傾向・状況証拠を把握できるということを、期待しても良いのではないだろうか --- ユングはそのように考えたのだった。


患者の夢には、特徴的な傾向が存在していた。
まず、主要な登場人物がユングと患者のみ、というケースがほとんどであった。また、夢の中のユング像は独特に歪曲されていた。超自然的な大きさであったり、ひどく歳をとった姿であったり、父親そっくりであったり --- そして、奇妙な事に自然がバックにあるのであった。

父親(実際には小柄だった)が彼女といっしょに丘の上に立っている。丘は小麦畑でおおわれていた。彼女は父親にくらべて小さかった。父親はまるで巨人のように見えた。父親は彼女を地面からかかげ上げ、小さな子供を抱くように彼女を両腕に抱いた。風が野面を渡っていった。小麦が風に吹かれてそよぐように、父親は彼女を腕のなかでゆすってくれた。(P17)


患者自身は、自分の転移の非現実性については良く理解していた。しかし無意識は、まるでその理性的な批判を無視するかのように、超人間的な父親像に固執しているのであった。人間的な尺度に還元して理解しようとする人間理性に対して、無意識は、ユング像に対し、超人間的な属性を付加しようとしていることは明らかだった。


ユングはそれらのことから、無意識とは個人的意識の残存物などではなく、それ自体が強い合目的性を持っているのではないか、と考えるようになった。
無意識はユングを神に仕立て上げようとしているのではなく、むしろ、ユング像から一個の神を創りあげようとしているのではないだろうか、個人的な外皮から、一個の神の表象を解放しようとしているのでは無いか、この患者の転移という現象は、実際には、意識の側でなされた誤解なのではないだろうか ---


それらの夢と並行して、患者は男友達と親しくなっていった。そして、ついにユングから離れる際も、きわめて理性的であった。ユングは、無意識のイメージの発展と共に、転移が解消されていったことに注目した。
患者の無意識で起こった出来事は、神イメージの発展であり、夢とは、その無意識の発展を自ら記述したものなのだとユングは考えたのだった。


患者は、宗教に対して批判的であり、不可知論的態度をとっていた。それに対し、夢は古代的な神イメージを発展させていった。意識の持っていた神概念に対し、無意識が提示したイメージは、原初的・太古的なものであった。夢の中では自然や風といったイメージが強調されていたが、古代より、神は風と結びつけられていた。古代のギリシア語においても、ヘブライ語においても、アラビア語においても、風と精霊とを指し示す単語は同一のものである。


これらのことから、ユングは無意識を二層に分けて考える必要があるとした。


一方の層は「個人的無意識」とでも呼ぶべきものであり、それは、個人存在の獲得したもの、個人的過去の中に立証可能なものである。


それに対し、患者の例が示すように、無意識には個人的な獲得物や付属物以外の要素も含まれている。患者は、「精霊」と「風」のイメージ的関連や類似性について、何ら知識を持っていなかった。もし仮りに、それが潜在記憶に由来するものだとしても、それが顕出されることとなった先在的素因がなんであったのかを、論じる必要があるだろう。


原始的な神イメージが現代人の無意識のなかで大きくなって、生きた効果を発揮したという事実に対し、ユングは、それは集合的イメージであり、歴史的な、広く流布したイメージが自然な心理的機能を通じてふたたび立ち表れたものである、と考えた。イメージをふたたび生み出すのは、夢の持つ原始的な、類似的思考法である、とした。つまり、表象そのものが継承されるというわけではなく、表象へと至る「流れ」が継承されていく、ということになる。ユングは、それらの表象へと至るパターンを「元型」と名付けた。


そして、このような仮説を提唱するに到った。
無意識は個人的なもののみならず、非個人的な、継承された諸カテゴリーという形での集合的なもの --- 元型 --- を含んでいる。つまり、「集合的無意識」と呼ぶべき層が存在する、と。


尚、本文には関係ないが、一つ補足をしておく。
上記にもあるように、ユングはこれらの概念を「概念仮説」として提示している。これらの仮説は常に検証され、変更されるべきである、と語っていた。


(続く)