「自我と無意識の関係」を読む (2)

先日のエントリに引き続き、「第一部 意識におよぼす無意識の諸作用」から。

第二章 無意識の同化作用のおこす後続現象 (1)

以下の内容に関して、ユングは控えめに、診察過程の被分析者の傾向として語っている。しかし、これらの知見は、人間全般の洞察としても有用であるように思える。多かれ少なかれ、人々はこれらの傾向に支配されているように、僕には感じられる(当然、僕も含めて)。特に、何かを主張しようとしている人々、ないしは社会と自身との葛藤に関連を見出している人々に、これらの傾向を見出すことが出来る。尚、これらの考察に関するより詳細な論考は、「タイプ論」においてなされている。


ユングは、無意識を意識化し、同化していく過程において、見苦しいほど高揚した自己意識を抱いてしまう人々が多い、と指摘する。


それらの人々は、大まかに二つのグループに分けることが出来る。
一方のグループは、無意識についてすべて知っていると思い込んでしまい、その知見において医師を上回ったかのように振る舞ってしまう人々であり、もう一方のグループは、それとは逆に、意気沮喪してしまう人々である。意気沮喪してしまうような人々は、無意識の内容に圧倒されることにより自我感情が弱まっていくのである。
ユングは、それらの傾向をより分析的に見るならば、第一のグループのオプティミスティックな感情の背景には、それを裏返しにしたような心細さがあり、その補償としての過剰なオプティミスティックさ、と見なすことが出来る、としている。また、第二のグループのペシミスティックさの背景には、頑強な権力志向の意志がある、つまり、自身に対する過剰な評価が、そのペシミスティックさへとつながっている、と指摘している。


どのような被分析者も、症状から解放されていない段階では、分析によって得られた知見を神経症的態度のために濫用してしまう。なぜならこの段階では、イメージと客体との区別がつかないからである。
第一のグループは、他者を客体として最も重要視してしまう人々であり、分析によって得られた知見を「なるほど、他者とはこういうものだ」という洞察に安易に結びつけてしまう。そこから、世間の蒙を開こうとする過剰な義務感を抱く。第二のグループは、自身を主体というよりも客体と見なす人々であり、新しく得られた無意識への知見に葛藤を抱き、そのことを負担に思ってしまう。
尚、ユングは、実際には、多くの人々はこれらの問題を暗示的にしか体験することがない、としている。(つまり、必ずしも目に見えてそのように振る舞う、という訳では無いし、また当然、当人に自覚は無い。)


どちらのケースでも、客体に対する関係の強化が生じている。第一のグループの場合、それは能動的におこなわれ、それが行動の領域の拡大へとつながっている。第二のグループの場合、それは受動的におこなわれ、それが苦悩の領域の拡大へとつながっている。


これらの無意識の同化作用に伴う現象に関して、個人心理学の創始者であるアドラーは「神に似ていること」という表現を使用している。ユングはその表現を、学術的な表現としてはふさわしくないが、心理的事実をまさしく言い表している、としている。「神に似ていること」とは、自分は善と悪とを知っている、認識している、という感覚である。無意識の同化作用の過程においてもたらされた、道徳的葛藤の見かけ上の克服が、優越の感情を生じさせているのである。それらの感覚が、第一のグループにおいては、自身を岐路に立つヘラクレスのように感じさせ、第二のグループにおいては、最古の人類の葛藤に身を置き、永遠の原理の衝突を体験して懊悩している、という意識 --- まるで、コーカサスの岩山につながれたプロメテウスにでもなったかのような感覚 --- を感じさせてしまう。


(ここまでで、まだ第二章の半分程度。続く)